快楽は心を破壊する
酒、ドラッグ、セックス、ギャンブル、、。
快楽と言えば、まず名が上がるのはこれらだろう。
これらの快楽は、見たくない現実から目を逸らさせる手段としては最適だ。
別に俺はそれを否定したいわけではない。
現実逃避が必要な時期は誰にだってある。
これらの行為に及ぶと確かに現実から離れることができ、恍惚とした気分を味わうことができる。
なぜこれらの快楽は、現実逃避を可能にするのだろう?
それは、心を麻痺させるからである。
しかし何事においても「限度」というものは大切で、特に「快楽」という奈落の落とし穴に、足を踏み入れる時は特に「限度」というものを忘れてしまってはいけない。人間が壊れてしまう。
もちろん身体が蝕まれてしまうという理由もあるが、俺は身体以上に「心」が蝕まれてしまうことの方を懸念している。
快楽に溺れ続け、心を麻痺させるとなぜダメなのかということを今回は綴っていく。
結論から書く。
日常の些細な出来事に心を動かされにくくなってしまうからである。
純粋無垢な人の優しさを受け取った時、道端に咲いている色彩鮮やかな花々を見つけた時、太陽や月などが創造する美しい風景、魂全体が揺さぶられるような絵画や映画、ふと読んだ本の一行どころではないインパクトを持った一行、好きな人と繋がれた時の何とも代え難いようなあの恍惚、こういったものに対する感受性、アンテナが圧倒的に弱くなってしまうと思う。
俺たちは忘れていないだろうか。
幼い頃に、近所のおばちゃんに貰う飴がダイヤモンド以上の輝きを放っていたことを。
そこらへんにある草原や川辺が、まるで未開のアマゾンのようだったということを。
そういった些細な出来事で豊かさを感じていた心は、いつしかシラフを離れなければ豊かさを享受できないようになってしまったのだ。
なぜ大人だけが酒(快楽)を求めるのだろうか。
悲しいことに大人になると酒を呑まなくては酔えないのだ。
子供は何も呑まなくても酔っている。
何に酔っているのか?
それは「世界に」だ。
子供たちからしたら、現実の世界は新しい発見や希望で満ち溢れている。
世界が、つまらなくなったのではない。
俺たちの心が、つまらなくなったのだ。
「おもしろき こともなき世を 面白く すみなしものは 心なりけり 」
といったのは明治の志士、高杉晋作である。
「心のありようで世界は面白くもなるしつまらなくもなる」といった意味だ。
俺たちはそれを忘れてしまっている。
そう、「快楽」という魔物によって。
SNSだって一つの快楽だ。例えば、Twitter。
インターネットがものすごいスピードで進化し、5Gというやつが現れた今でもTwitterをスクロールすると一瞬、ラグが発生するだろう。
実はそのラグは意図的に作られているのである。
下に指を動かす動作、時間差で結果が表示される、、、何かに似てはいないだろうか。
そう、「スロット」である。
スロットに仕組みを似せることで、脳内のドーパミンを分泌させているのだ。つまりSNSも一種の快楽なのである。
私たちがSNSを頻繁に開いてしまう理由の一つがこれだ。
快楽とは関係ないが、俺は仕事をするのも一種の逃げだと思っている。
これは「サラリーマンなんかクソだ」
と言った低俗な見下し思考から生まれた言葉ではない。
働くということを否定しているわけでもない。仕事をすれば、楽なのだ。
仕事をしていれば不安は忘れるし、時間は過ぎていく。そして、気づいた時には
「え、こんなことがしたかったんだっけ」というところに立っている。
それがやりたいことなら、もちろん素晴らしいことだ。しかし、大抵の人は「とりあえず働こう」というマインドで働いているだろう。
もちろん生きるために仕事するというのは大事なことだが、働きながらも自分は何のために働いているのか?何のために生きているのか?
本当に心が揺さぶられる瞬間は何なのか?
と言った自問自答を常に自分に投げかけていないと「好奇心」という我々誰もが、胸の奥底に抱えている泉が枯渇してしまう。
働くために、生きてはいないだろうか。逆である。
我々は生きるために、働くのだ。
「働く」というのは目的ではなく、手段なのだ。
そこを忘れてしまってはいけない。
スマホを見るために下を向いて歩くのではなく、上を向いて歩こう。
インスタ映えなんかよりも、よっぽどキラキラした世界がそこには広がっている。
そして、快楽ではなく自分(の心)に溺れるのだ。
悲しみや苦しみに自ら溺れていけばいいのだ。それは心身を引き裂かれるような辛さかもしれない。
心も出血するのだと気づいてしまうかもしれない。
しかし本当の飢えからしか、自分が渇望するものは見えてこない。
現実から目を逸らしてはいけない。現実を直視するのだ。
感じたくないことも感じなきゃ何も感じられなくなってしまう。
苦しいことや辛いことをちゃんと心で感じないと、嬉しいことや楽しいことも感じられなくなってしまうのだ。
最後に、ある詩人の詩を置いて今日は終わろうと思う。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
人のせいにはするな
自ら水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもがひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい自分で守れ
ばかものよ
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