人生のトランジション(転機)
人生のトランジション(転機)Ⅰ
私の人生のトランジションって多いような気もする。
暗黒期(義務教育時代)、高校生活、社会人(倒産)、転職、大学進学、家族との永遠の別れ、昇進、大学卒業、キャリアチェンジ(転職)、家族との永遠の別れ、転職数回、事故(通勤災害)、社会復帰(転職)、メンタル底下げ、社会復帰(転職)も再びクビとなる←今ここ。
暗黒期(義務教育時代)
小学校時代から続く、いじめが異様なほど酷かった。
ほぼ学年中から、嫌がらせを受けていたというか何というか。
何で自分は生きているんだろう?何で自分は今ここにいるんだろう?
何故自分は新聞やテレビに出てくる人たちの様に黄泉の国に行けないんだとずっと思っていた。
毎日毎日、言葉の暴力を受け、避けられ続け、心がボロボロだった。
辛く毎日が地獄だった。
小学校時代の先生に言われた事。
「貴女が〇ねば、全国民中が祝福してくれる!だから今すぐ〇ね!!」と。
葬式ごっこもあった。
牛乳瓶に草木を入れて、色紙に「〇んでくれてありがとう」とか書かれた。
自分の存在を消された。
中学校でいじめが大問題になった時、加害者の親が言い放った事。
「あんたのせいでうちの子の高校受験がダメになったらどうする?」
この子にしてこの親ありですね。いや知らんし。
ならば、実名を記して〇んでやれば良かったのだろうか?とさえ思った。
いじめが膨れ上がり過ぎて、中学校の先生には止める事が出来なかった。
その中学校時代の先生が卒業の時にアルバムに書いて下さった一言。
『精いっぱい、生きよ!』
という言葉を残して下さったが、30年以上も経てば忘れたとのこと。
ただ今も福祉関係でお付き合いがある先生です。
(先生はすでに定年済み)
高校時代
高校は地元の商業科の学校に進学した。
地元では超有名な不良が集まる学校で、落ちこぼれと言われた人たちの集団でもあった。
それは周りの勝手な見方でしかない。
私にとっては1つの転機だったと思う。
高校に入学して、一番最初にしたこと。
副担任の先生に勧められて、スクールカウンセラーの先生に出会った。
しばらく義務教育時代の傷を癒すべく、スクールカウンセラーの元に足しげく通った。
ある時、先生に聞いたのは、「先生みたいになるにはどうしたら良い?」ということ。その先生は無理だよとは言わず「まずは大学で心理学を勉強しないといけないね!」という事だった。
その足で、進路指導室へ行き、どうしたら商業科から大学へ進学できるのかと聞いたと思う。
偏差値38(当時)の高校から、大学進学なんて途方も無い事である。
ある意味、怖いもの知らずということか。
商業科から大学進学する為の方法を聞き、勉強に打ち込んだ。
資格がいる。3科目2級を取得し、偏差値3.5以上なら推薦枠が使えると。
3科目2級を取得すれば、副教科はあとから付いてくるだろうと、あまり考えていなかった(普通科の主要教科である)
3年の1学期には、約束通り3科目2級を取得した。
そして1級受験を控えた直前。親族と大学進学について話し合った時、就職氷河期の今、進学よりも就職した方が…という事になり、目の前が真っ暗になった。1級なんてどうでもよくなった。意中の大学が受験できなくなった。意中の大学は社会学部心理学科だった。その後、紆余曲折を経て、推薦で法学部法律学科を受験したが、不合格。滑り止めで受験していた専門学校に入学を決めた。(特待生推薦入学)
入学前日、勝手に就職先を決めてきて、勝手に就職した。
社会人×大学生
新聞の折り込み求人のチラシを見て、片っ端から受けた。
適当に。本当に適当に。受かったのは警備会社の事務職。
初任給¥168,289は、当時の高卒の給料としては良い方だった。
3カ月は事務職として勤務していたが、現場に人手が足りなくなり、各路線の試験を受けて、現場に出る様になった。
一番怖かったのは、淀川の鉄橋の上。今のおおさか東線である。
女性が夜間に働く事はNGであったが、働いていたと思う。
気付いたら、東海道新幹線・山陽新幹線の保線警備の資格も取得していた。
JRの関連会社ではなかったので、ある事件が原因で会社は倒産した。
社会人2年目の年末前の事である。
しばらくは短期のアルバイトで過ごしていたが、これまた、求人の折り込みチラシを片っ端から受けて、コールセンターにたどり着いた。
クレジットカードは知っていたが、リボ払いって何?という状態の時。
全然知らない世界に来た。
全然、数字が上げられない。
高卒でバイトで、主婦層にすごくバカにされて辛い日々を送っていた。
ところが、会社の面談で上司から意外な話をされた。
社内の勉強会にはよく出ていたというか押しつけられていたというか。
上司からの言葉「勉強は嫌い?」
いや、嫌いではないが好きでもない。分からない。
「うちの会社は高卒のままではSV(スーパーバイザー)職までしか上がれない。大卒になったらマネージャー以上に上がれる。時間をかけて育てるから大学に行ってみない?通信でも夜間でもいいから。どう?」
いや、確かに高校時代、大学に行きたいという夢はみた。しかし現実的ではない。自分が大学なんて、まして通信や夜間なんてハードルが高すぎる…
通信や夜間は自分の意志を貫き通さなければ卒業は見えてこない事を知っていたからである。
自分には無理と一度は断ったものの、上司は「時間をかけていけばいい。10年位かければ卒業できるでしょ?」という後押しがあり、入学を前向きに考える様になった。
大学…どこにしよう?通信制大学。
どこが良いんだろう?
高校時代の恩師に相談した時。
「もし、今もあの頃の想いが残っているなら佛教大学に心理学科があるよ!どうする?」と提案を頂いたが、正直、怖かった。
就職氷河期はまだ変わっていなかった中で、再び、誰かに邪魔されるんじゃないかという恐怖から心理学は選べなかった。
そして、確実に卒業したいという想いから、放送大学を選択した。
その時も「心理と教育」のコースは怖さが先に立ち選べなかった。
ボランティア活動で長く障がい者福祉と関わっていた事もあるが、卒業率が高い「生活と福祉」コースを選択した。
1999年4月、大学入学。
同年、バイトから契約社員へ転換。
2002年10月、父を見送った。阪神高速湾岸線で心臓発作を起こして急逝。
2005年、スーパーバイザーに昇格し、成績不振者のサポートに回る。
絶対に誰も退職させたくない一心で勉強会や後年、国家資格となる貸金業務取扱主任者にも積極的に参加し、勉強との両立を図っていた。「あなたには無理だよ」という言葉は使いたくなかった。何かの手立てが有れば全員がこの会社で活躍していって欲しいと願っていたからである。ダメの烙印は自分の手では押したくなかった。
究極まで追い込まれて、どうすることもできない人が一人いて、上長に相談して一度だけ、その言葉を使ってしまったが、暫くは後悔で苦しんだ。
1年間の休学を含有した10年間の在籍で、卒業研究「鉄道における障害者を対象とした接遇・介助の在り方についての考察」を提出。
128単位を取得して卒業を迎える事になるのだが、その前年に、翌年の春に卒業が見えてきていたので、マネージャー職への昇格試験を受験していた。
卒業見込みで受験し、卒業前提で合格した。
1月に大学卒業見込みが確定。
直後くらいに内示を受けたのは、東北支社への転勤とマネージャー昇格。
ところが、大学在学中に思いっきり勉強してきて、気持ちが心変わりしてしまっていた。一度しかない人生なら、後悔をこれ以上したくないということ。マネージャーに昇格して頑張る人生よりも福祉に生きたいと思った。
給料が20万以上違う世界である。上司と何度も面談を重ねた。
親子喧嘩もした。
それでも意志は変わらなかった。
大学卒業と共に私はお世話になったコールセンターを退職し、福祉の世界に足を踏み入れた。
思い描いていたよりずっと過酷な現実が有った。
障がい者福祉の世界とWワークで長らく訪問介護で働いてきた。
途中で、介護系の資格:介護職員基礎研修と介護福祉士実務者研修を修了した。
2017年1月、最愛の母を見送った。
その後、再び体調を崩し、休職。のちに弁護士を挟んで退職した。
休職をキッカケに資格スクールでの勉強を選択。
これが次のトランジションになったと思う。
資格スクールの先生との出逢い
私は単純にしか考えていなくて、ちょっとPCスキルが上がれば良いと思っていた。介護の世界から変わろうと思っていなかったからである。ずっと、介護の世界で仕事をするつもりだった。だから、ちょっとスキルが上がれば良いと安直だった。
しかし、ここで出逢った先生は違った。
自分の未来を信じて、自分の為に頑張ってくれていた。
だけどそこに自分自身が向き合えず、後悔を残す事になった。
(他で公開しているのでこちらでは割愛するが)
先生が望んでくれた事。
いつか先生たちが居なくなったとしても、社会のお世話になるのではなく「自分の足」で立って歩んでいける強さを身につけること。
その想いを持った先生から2代目にバトンタッチ。
同じ様に強く生きていって欲しい。
自信をもって生きられる様に。
その願いが叶うのは、ずっと未来のこと。
私が自分のスキルに自信を持つのはずっと未来である。
2018年4月、就活を開始して初めて就労支援の世界を知り魅了された。
しかし現実問題、MOSだけでは受からなかったので、ある事業所にどうすれば就労支援で働けるか(合格できるか)直球で聞いてみた。
「officeスキルを上げるか、イラフォト(Illusutrator・Photoshop)どちらかの資格を持っていたら入り込むチャンスは出てくると思いますよ!」と丁寧に教えてくださった。
2018年6月、他者の5倍の時間をかけたIllusutratorクリエイター能力認定試験スタンダードに3度目の正直で合格した。
2018年10月、
サーティファイExcel表計算2級に合格した。
2019年1月。
念願叶って就労支援の世界に足を踏み入れた。
同年3月、サーティファイExcel表計算1級合格。
23年越しの夢(1級合格)を遂に叶えた。
怒られて泣いて、辞めると吐き捨てて、更に怒られるといった悪循環ともいえる状態を繰り返しても諦めなかったのは先生。
ちゃんと前をしっかり見据えてゴールまで伴奏してくれました。
2019年6月に資格スクールを修了するも、7月に強制送還。
2019年11月に習慣アプリをスタートさせる。
最初の頃は、バグが多く発生し、意味もなく急に使えなくなったり。
(現記録の最初の日は、2019/12/6が起点となっている。)
2019年12月、再び修了。
2020年4月、強制送還(お呼び出し食らうが、全校、緊急事態宣言による休校で保留)5月に面談し、Photoshopクリエイター能力認定試験合格に向けて再学習を開始。6月に先生の異動が判明。号泣。先生は県外へ。
2020年7月、3代目と一緒に頑張った。
Photoshopクリエイター能力認定試験スタンダード合格。
実に4年がかり、他者の10倍以上の時間とお金をかけて合格。
1部は100%、2部は71%で滑り込みで合格した。
夢だと思った。悲願のW合格に時間がかかったなぁと思いつつ感無量の思いでした。
2022年2月、前年の12月から再び3代目とお勉強を再開し最後の学びを行う。
最後の学びに選んだ科目。
ずっと昔。トラBOSSから「難しい科目」と聞いており、ある意味、やってみたかった思いのある科目。仕事柄必要だったので勉強に踏み切った。
試験中、パニックを起こして泣く、止める発言をするも勘違いから先生が怒ったと思い込み、泣きながら問題を解いた。
他者の倍の時間を入れて学習しても、手ごたえがあった訳ではなかったが、結果は93%であった。100%を狙いにいっているとよく言われるがそうではなくて、やり残した後悔を再びしたくないだけである。
2022年3月、Accessビジネスデータベース技能認定試験3級合格
自分には手の届かない遠い世界だと思っていた。
その世界を手にした喜びは今も思い出の中に残っている。
転職(就労支援)とキャリアコンサルタント
パソコンスキルを得て、念願叶って、就労支援の道へ入った。
もちろん、資格スクールの先生は反対した。
メンタルを潰す以外ないからである。
それでも自分を貫いて、就職した。
メンタル維持を約束して…💦
約束…ごめんなさい🙇ですかねぇ(笑)
職業指導員(障がい者福祉施設指導専門員)となった。
ビジネススキルやパソコンスキルを教える。
主に室内の業務に特化していたので請求業務ももれなく付いてきた。
面談も日々ある。
傾聴するという意味では、コールセンター時代に多少は培ってきたが、正解かは分からなかった。面談スキルを見て上手いなと思った人はさっさと辞めていかれた。ゆっくり話を聴くスタイルをとっていた時、とある就労支援員に面談が長すぎると面談中に割り込んできた人がいる。
その時に出会った就労支援員がキャリアコンサルタントである。
とにかく最悪の出会いだった。
まず学歴で卑下され、職歴で卑下された。
キャリアコンサルタント×2級技能士の方だった。
「なんだこいつ?そんなにキャリアコンサルタントって偉いのかよ?」って思った。Xの前アカウントをご存知の方はよく知る内容かと思う。
ところが、資格スクールの2代目が3月受験でそのキャリアコンサルタントを受験するという。
(本人曰く、コロナが怖くて回避した模様。2020年の事)
あんなひどい資格取るんか?とガチで言った事がある。
「それはひどい事を言った人の問題でしょ!本当のキャリアコンサルタントはとても素敵な職業だから、応援してよ!!」って真顔で言われた。
国家試験だから不安だったのね。
悪いと思ったのと、いつも一生懸命努力する先生の姿は見ていたので、頑張って欲しいと思って、自分の当時のスキルの限界まで頑張って一人で作製したのが、ミンティアの桜バージョン。
今、残念ながら、同じスキルはない…
色々とツイートしていた頃に、とある人から、本当のキャリアコンサルタントさんの魅了は自分で感じて欲しいとある二人の方を紹介して下さった。
そのうちの一人が今、大変お世話になっている公認心理師さんである。
人生のトランジション(転機)Ⅱ
校舎撤退と共に資格スクールの先生との別れを経験し、就労支援の現場に戻ったのも束の間、通勤災害に見舞われる。
右足大腿筋4本断裂。大けがである。スポーツ選手でも3本断裂すれば大概の大けがで全治に数カ月かかる。主治医は初めての経験と話されていた。
事故が原因で、一時期、寝たきりとなった。当時はまだコロナが2類で基礎疾患のある自分にとっては入院する方がリスクが高いため、自宅療養を余儀なくされた。一人暮らしで親戚縁者とはほぼ絶縁に違い。元同僚やご近所さんに助けられた。
そして日課(習慣)とする勉強は辞めたくなかった。
もし善くなったとしても、再び就労支援の現場に戻るのは無理との診断で有ったけれど、諦めたくなかった。
諦めたらここで終わる。
諦めなかったら、何かしら未来に何か残る。
諦めてたまるか…って思いだった。
もし、足が良くなってもスキルが落ちてしまえば就労支援の現場に帰れない。スキルは絶対に落としたくないんだ!という一途な想い。
這ってパソコンの前まで行き、勉強を続けた。
座るのも起き上がるのも激痛。
激痛に顔を歪ませながらも勉強を辞めなかった。
「絶対に就労支援の現場に帰るんだ!」という強い意志を持っていた。
1か月の寝たきりと2カ月のリハビリを経て、就労支援の現場に復帰した。
それから暫くして、とあるセミナーの参加をきっかけにキャリアコンサルティングを受けた。
ちょうど1年前のことである。
お世話になっている公認心理師さん主催のセミナーに後日アーカイブ参加して、その時に頂いたワークシートに書いた5年後の姿に、キャリアコンサルタントの勉強をすると書いている。念は押すが、「5年後の姿」である。
当時の先輩社員にキャリアコンサルタント学習を強く反対された。
反対を押し切る力が自分にはなくて、公認心理師さんの力を借りた。
厳密には当時はキャリアコンサルタントさんとして入って貰っていた。
2回の面談を経て、退職になっても良いから、自分を貫きたいという意思を固めたが、その後、色々あり、メンタルを壊した。
振り返る強さと立ち止まる勇気が無かった。
突き進んでしまい、メンタルを潰した。
資格スクールの先生との約束を守れなかった🙇
そこから再び立ち上がるも、カウンセリング入門で再び悪夢をみる。
沈黙が怖いという恐怖を味わった。
応用実習までは時間が有るからという事で、そのまま問題解決させず、養成講座に入学した。
いつも通りの学習をずっとやり続ける中で、応用実習で何となく転びそうな気がしていた。早い段階から対応してくれるキャリアコンサルタントさんを探した。探しながら、勉強を続けた。
私にとっての「2時間、勉強する」は日常であり特別な事ではない。
「今からそんなに飛ばしていたら息切れする」と言われたが、飛ばしているつもりはなかった。ただ、勉強には工夫はした。
Xのフォロワーさんは、1/3がキャリアコンサルタントさん。
多分、鍵アカの方は1/2位がキャリアコンサルタントさん🥰
ポストを有効利用させて貰った。
毎朝ポストで上がってくる内容の中で、キーワード(学科のキーワード)が入っている内容を全てブクマで保存して、夜にテキストで調べてポストイットに書いて、翌朝覚えて捨てる。これを毎日繰り返した。
お陰で、中間テストも修了テストも95点以上であった。
よく誤解されるが、決して100点を狙っているわけではない。
2023年11月、peatixを通じて、国キャリ25回受験生対象のロープレ学習相談会に潜り込んだ私。
直ぐにバレたのだけど、直感でこの人となら勉強できると思った。
この人に託したいと感じた。勉強に時間をかけたい。
納得のいくまで突き詰めたいタイプ。
一緒に駆け抜けてほしいと無茶なお願いを聞いて頂きました。
20回という回数が妥当とは思っていないけれど、納得のいく勉強がしたかった。お勉強の話をしたときに「時として👹になるかも」って仰ったとき、このキャリコンさんの覚悟を見た気がした。
強い覚悟と絶対に合格させたいという気概を感じた。
時々、弱音を吐いちゃって「お勉強嫌い」って試験直前にいう事がある。
だから芯が強い逞しい人でないと無理なんだよね。
2024年1月、習慣アプリの継続日数は1500日を迎えたが、同じ日に課題として残していた応用実習はもちろん、大きな課題となった。
怖さが先に来て聴けない、喋れない…3:44しか話せなかった。
退校の危機。
あそこまで落ちて這い上がった人はいないという事だった。
急きょ、ロープレ対応のキャリコンさんも入って下さったけれど、すべての回数をここで使い切るわけにはいかない。
まだ諦めたくない…という想いを元キャリアコンサルタントの先輩同僚に相談したら、「まだ諦めなくて良い!!フィードバックはできないけれど、出来る事はする」と言ってくれた。
5分を目指した。次に7分、8分と少しずつ時間を重ねた。
業務の合間に時間をぬっていたので、朝と昼は8分が限界だったが、夕方は状況を見つつ、11分、13分と伸ばしていった。
2回目の逐語記録は先輩同僚にお願いして取らせてもらった。
ネタをたくさん持っているわけではないので、録音したのはこの1回限り。
あとは中身を少しだけ変えつつ、退職までに一緒に頑張ってくれた回数は93回を数えた。(最終は102回で終了)
逐語記録13分を記録した3日後、Xでお世話になっているキャリアコンサルタントさん主催のロープレ練習会に初めて参加して、そこで初めて15分に到達した。目の前で「はじめまして」のキャリコンさんが自分の事の様に喜んでくださった。
応用実習の修了試験前日。
休日にも関わらず、なんと早朝7時からロープレの勉強に付き合って下さった(いつもお世話になっている)キャリコンさん🥰
絶対に合格したいと思った。
迎えた日曜日。応用実習の修了試験。
無事に15分耐え抜いた。長い沈黙に耐えたね…と仲間に言われたが、実は気付いていなかった。そんなん有ったっけ?という状態であった。
のちに逐語記録を起こして、沈黙が有ったことを理解した💦
翌週、TAの先生と授業終わりに少しお話した。
「諦めずに勉強された事、努力された事は本当に素晴らしい」と。
ありがとうございます。それが私です。
自分が決めた事で、絶対に諦めたくないという想いに駆られたものだけは、どんな事が有っても続けたかった。貫きたかった。
今もまだ100%成功するわけではないけれど、少しずつ勉強は出来ていると思っている。苦手だからこそ、勉強する。
1月は大きなことがたくさんあった。
退校の危機と習慣アプリ継続日数1500日達成が同じ日。
その週末に親愛との永遠のお別れ。
会社からの解雇通告。
主治医からの「就労支援員」について、レッドカード
たくさんあり過ぎた。
そして迎えた、先輩同僚とお別れの日。
「私は就労支援員になって欲しいとは思っていない。中の事が回せるんだから職業指導員として再び勤務できる会社に行き、7月にきちんと受験すること、そして合格後はキャリアコンサルタントとして活躍して欲しいと願っていること。合格した後はどんなことがあってもその資格は手放さないでいて欲しい事」を話された。
先輩同僚の想いを受け、再び転職活動の為に歩み始めた。
リハビリと休息に前半を使いつつ、転職活動を開始した。
養成講座の勉強ももうそろそろ終盤。
残り1か月となった。
これからが本番。
Xで知り合った、キャリアコンサルタントのフォロワーさんがロープレ練習に付き合って下さったりと本当に有難いなと思います。
大学復帰があるため、一度で確実に通り切りたいからこそ、早い段階から勉強を始めた。夢を夢で終わらせたくない。
諦めずに背中を押し続けてくれた先輩同僚の想いも、その昔、資格スクールで一緒に勉強して下さった先生の想いも、きちんと胸にしまって、駆け抜けたいと今は思っている。