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7月18日【雑記13】

 友達が死んで4年が経った。
 まあ、親友と呼んでも差しつかえはないくらいの仲だったと思う。アニメのブルーレイについてるコメンタリーを聞くと、彼も自分もまあ楽しそうだ。いつもあんな調子で話してた。
 ああいう事件があって、自分の中でなにかが変わってしまった。それが何か、ちょっと考えてみようと思う。

 まず思いつくのは、どうしようもないくらいの虚無感だ。
 人間が生きていくのに必要な物語——神だったり道徳だったりスポーツ選手だったりアイドルだったり何でもいい——その虚飾がわかってしまった。前から理屈ではわかっていた。だがあの件で、物語の嘘が肌で感じられた。大勢の人々がなんの意味もなく、とるに足らない男の独りよがりな思いつきで死んでしまった。数分間で。別れも悔いも告げられずに。
 すこしも救いがない。まったく報われない。オチもない。
 この世界には主人公はいないし、起承転結などないし、クライマックスもない。当たり前のことだが、実感としてそれがわかった。
 どんな小説も文字の羅列だし、漫画やアニメはただの絵だ。実写映画も、後ろには必ずカメラがある。それが必ずわかってしまう。みんな、なにが楽しいんだ?
 そうしたら自分のやっていることを、どうとらえたらいいのかわからなくなった。盛り上がるシーンを書いて——だからなんだ? 本当はそうはならないじゃないか。以前はそうなる、と頭のどこかで信じていた。能天気にもほどがある。
それでも嘘をつき続けられればいいのだが、自分はそこまで器用ではないらしい。むしろその能天気な嘘を半ば信じて書いてこられたことに、自分の強みがあったのかもしれない。
 彼が生前、何度か賀東の作風をマッチョだと言っていた。バカにして言ったわけではなかった。たぶん、今にして思えば自嘲のニュアンスが込められていたのかもしれない。大柄で屈強でヒット作を飛ばした作家の賀東だから、そんなことが言える。強い男を堂々と描ける。自分はそんなふうにはできない。ずっと小さな会社の中で必死にやってきた自分には……とか、そんなところか(想像はできるが同意はしない)。
 もちろん自分は彼が思っていたほど屈強ではない。いや……どうだろうな。ここ四年いろいろあって、心身ともに傷ついたが、耐え抜いた自分はなかなか強い男なのかもしれないと思っている。まだ能天気さは残っているな。良かった。
 彼の作風の中にある苦味や諧謔が、前よりは理解できるようになった気もしている。
 ともあれ、この虚無感はいつもついて回る。たぶん一生消えないだろう。
 それでも自分は小説を書いてる。つっかえ、つっかえ。大半の理由はほかに取り柄がないからだが、それ以外の理由もあるかもしれない。それが何かはまだよくわからない。訳知り顔の無神論者になったわけでもない。本当にまだ、よくわからない。

 



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