プロレス超人列伝第13回「グレートアントニオ」
この特集では普段はWWEを中心に躍したレスラーを扱うが、今回はWWE以外の団体で活躍したレスラーのことを扱ってみたいと思う。
グレートアントニオは1925年生まれのクロアチア出身で青年時代に母国を捨ててカナダに移住をした、カナダで怪力自慢で腕を鳴らしバスを引っ張る記録ではギネスにも輝いたことのある特殊な人物であった。
やがて、サーカスなどの見世物プロレスに場に姿を出したアントニオはその怪力で腕を鳴らしていた。
1959年以降はアメリカのプロレス団体に顔を出してブルーノ・サンマルチノなどとも試合を行うようになっていった。
しかし、このアントニオかなりの誇大妄想家で人気はあるが自分はホンモノのスターであると常に周囲にひけらかしていたようである。
そんな有頂天になったアントニオは1961年以降には日本の団体を足を運ぶことになったのだった。
当時、『第3回ワールド大リーグ戦』を開いており複数の外人レスラーを抱えていた日本プロレスの中、そんな中でもアントニオはそのバスを引っ張るパフォーマンスで大人気を博していた。
アントニオのエゴは暴走していき、他の外人レスラーたちに「俺のおかげでこの興行は盛り上がっている。」と大見得をかましていばりちらした。
あげくのはてには「契約延長」や「ギャラの賃上げ」といった無茶な要求までを求めるようになった。
こんなアントニオの横暴にもう我慢ならなくなった外人レスラーたちは徒党を組みアントニオに制裁を加えるようになっていった。
当時外人レスラーたちの中には後に「プロレスの神様」として称されるカール・ゴッチやアマレスの世界で活躍したミスターX、ガチのマフィアだったアイク・アーキンスなどいた。
要するにアントニオは怒らせてはいけない怖い「先輩」たちを怒らせてしまったのであった。
当初は彼をかばっていた力道山もアントニオをとうとう見捨ててしまい、リーグが終わるとアントニオは逃げ帰るようにカナダへ帰っていってしまったのだった。
その後、しばらくはサーカスとプロレスを繰り返しながら生きていたアントニオ。
時は巡り、1977年.
新日本プロレスの『闘魂シリーズ第2弾』に参加するために16年ぶりに日本の土を踏みにきたのであった。
しかし、そこでもビッグマウスは相変わらずであった。
「アントニオ猪木にプロレスを教えたのは俺だ。」や「アントニオ猪木のリングネームは俺にちなんでいる。」といったありえないことを言ってのけるアントニオに猪木は腸が煮えくりかえる思いをしていただろう。
彼のエゴはやはりここでもエスカレート。
「昭和天皇にあわせろ、俺の試合をみせろ」と無茶苦茶で無礼な要求までしてのけた。
おまけに臭いがひどく風呂に入ったことがないといわれているほど不潔な見た目をしていたのだ。
さらにほかのレスラーと喧嘩をする悪癖は治っておらず、当時外人レスラーのボスであったアンドレ・ザ・ジャイアントと揉め事を起こすなど15年たっても変わらない様子であった。
さらにホテルの部屋で寝ずにロビーで寝る、飲食代を勝手に新日本持ちにして無銭飲食を繰り返すといったような迷惑極まりない奇行を起こしアントニオにキレてしまった猪木はとうとう彼を〆ることを覚悟するのであった。
かつての人気レスラーが再来日したこともあり客入りは順調であった。
しかし、当時もうグレートアントニオは50を過ぎたロートルであった。
そして、12月。
運命の日はやってきた。
アントニオ猪木vsグレートアントニオの試合は始まった。
しかし、若いころから何一つ変わっていないただ力任せでスタミナもなくなっていたアントニオは試合の最中でも猪木を侮辱したような動きを行い、なおかつ猪木の技を受けるような謙虚さもかけらも備わっていなかったのだった。
観客も失笑気味である。
恐らくここで彼が真剣に向き合うか、猪木の技を受けるといった謙虚なムーブをみせれば変わっていたのかもしれない。
空気の読めないアントニオは猪木の頭部に激しい打撃を加えた。
その時、猪木の表情は鬼の表情になった。
キレてしまったのだ。
猪木はアントニオにガチのビンタを複数回入れ、足をつかみ躓かせると顔面に複数回の蹴りを加えたのだった。
アントニオの顔面は割れると、顔面から流血を起こしてしまった。
試合はアントニオのKO負け、猪木の勝利で終わった。
やがて彼は再び日本から去ると、プロレスの表舞台には極力姿を出すことはなかったそうである。
と、ここまでなら多くの人が知っていることだろう。
ここまでは日本での彼の経歴である。
日本では無様な人間として記憶されているが、実はカナダではグレートアントニオの名前を知らぬ者はいないと言われているほどの人気者であったのだ。
交友関係は非常に多く、なんとあのマイケル・ジャクソンとも友人同士であったといわれている。
さらにアントニオ猪木と死闘を繰り広げたモハメド・アリも彼と友人であったそうだ。
またその人気からカナダでは彼を題材にした絵本が作られている。
この絵本の中では「グレートアントニオは宇宙にいる宇宙人と交信を得て超人パワーを受けている」という事が記述されているが、これは彼の大法螺の一つであるといわれている。
また複数のバンドがグレートアントニオを題材にした楽曲を発表するなど、カナダでは人気者であったそうだ。
また、彼自身は2度の結婚歴があったそうだ。
その不潔な見た目とは違い、実はかなり女性にはモテていたそうだ。
さらに死後彼の活躍をたたえる石碑とベンチが建てられるという事がニュースにもなっていた。
2003年に彼はこの世を去ったが、若くして死ぬレスラーが多い中77歳で自宅の中で死んでいたが、1部のニュースの中では妻に看取られて死んだというものもあったので決して孤独な生涯をすごしたというわけではなさそうである。
(訂正:彼が死んだのは自宅ではなくベンチの上だった模様、外傷もなく寝るように死んでいたそうです。)
日本では悪名高いが、カナダ本国では愛すべき人としてたたえられていた。
グレートアントニオもまたプロレス界に名を遺す超人と呼ぶにふさわしいと言えるだろう。
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