プロレス超人列伝第11回「ブレット・ハート」
皆さんが想像するプロレスラーといえば、なんだろうか?
巨体と怪力、激しいマイクパフォーマンス、そして傲慢な態度…良くも悪くもそういうものだろう。
確かにそういうレスラーはどこの団体でも重宝され、第一線で活躍することがある。
しかし、今回紹介するブレット・ハートはそんなものとは真逆な性格を持ったレスラーであるが世界の頂点に立っていた男であった。
1957年、カナダ一プロレス一家の「ハートファミリー」スチュ・ハートの六男として生まれたブレットは子供のころからレスリングを学んでいた。
少年時代はアマレスでその実力をつけ、いずれは父親や兄たちと同じくプロレスの世界での活躍を夢見ていたブレットであったが、1976年にプロレスデビューを果たすことになった。
その後はバッドニュースアレンなどをライバルに加えブレットはめきめきと実力を持っていった。
そして、1980年には新日本プロレスに上陸してジュニアヘビー級を舞台に藤波辰爾やタイガーマスクといった有名選手と試合を行っていった。
この時の彼を知っている皆さんも多いのではないだろうか。
日本で活躍していた時は「ブレッド・ハート」という名前になっていた。
比較的ハードな試合も多かった当時の日本マットに順応できたのは彼自身のアマレス仕込みのファイトスタイルが助けていたのだろう。
やがて、1984年WWFに入団をすることとなった。
当初はかつてのライバルであったバッドニュースアレンと共闘してアマレス仕込みのファイトを繰り出すヒールとして活躍していたが、次第に人気が出てきて以降は義兄のジム・ナイトバードと合体して、ハート・ファウンデーションとして善玉として活躍をしていく。
善玉に転向して以降はつけていたサングラスを会場の子供に手渡すパフォーマンスを行い、これも彼の人気に拍車をかけた。
口下手でパフォーマンス能力に欠けたブレットであったが、キメセリフは一つあった。
それは
「現在、過去、未来においても俺が最高だ。」
(The Best there is, The Best there Was, and The Best there ever will be )
ピンク色のコスチュームも彼が着るとなんともダンディでカッコよくみえた。
身長も大きくなかったブレットであったが、そのテクニカルなファイトスタイルはアメリカ全土で大うけしていった。
1990年には、ブレットはミスター・パーフェクトを破ってインターコンチネンタル王座を獲得した。
そして、1992年にはリック・フレアーを倒しWWF世界ヘビー級王座を獲得するまでに至ったのだった。
やがて、1994年ホーガンがWWFを去ると新しいヒーローとしてブレット・ハートが君臨することとなった。
ビンスも当初はブレットをあまり快く思っていなかったが、ビンスの求めるヒーロー像(星条旗を思わせるショートタイツ・パワーファイター)が古くなっていたことを認めて彼を新しいWWFの主人公として位置付けていくことになっていくのであった。
もっといえば、ステロイド疑惑が問題になっていたWWFにとって、ブレットはファンの人気も高くアスリート的な体系をしていたこともありクレーム対策としては都合がよかったという思惑があったのだといわれている。
しかし、そんな順調に見えた彼の人生に大きなライバルがぶち当たることとなったのだった。
そのライバルというのはショーン・マイケルズだった。
若くショーマン気質にあふれ、派手で明るくチャラいハンサムなショーンはブレットにとって対局ともいえる存在であった。
ブレットにとって、ショーンはプロレスの伝統を汚し下品なショーに変えていくゲスにしかみえていなかったのだ。
一方ショーンからすればブレットは保守的な考えを持った頑固者。
そして、二人そろって凄まじいプライドとエゴの持ち主であるという共通点があった。
二人は文字通りの水と油の存在で犬猿の仲であった。
そして、時代は流れ1997年。
時はマンデーナイトウォーズと呼ばれるプロレス戦争時代に入っていった。
WCWに移ったホーガンはnWoというヒールユニットを結成、極悪非道の限りを尽くし見事悪役として君臨することとなった。
これは当時、世界的なフィーバーを起こすほどの大受けになってしまい、視聴率戦争でWWFはWCWに負けている状況が続いていった。
こういうこともあり、WWFは経済的に苦境に立たされることになった。
ここで誰もがわかっていたのだ。
純粋な勧善懲悪がウケる時代ではない。
ここでWWFもアンチヒーロー的気質のあったショーン・マイケルズやアンダーテイカー、ストーンコールドを主力に添えることとなった。
ブレット・ハートと彼の考えるプロレスはもはや時代遅れになっていたのだ。
ストーンコールドと対戦したブレット・ハートはそこでヒールだったはずのストーンコールドをリンチにしてまさかのヒールターンを行うことになってしまった。
子供のヒーローであることにプライドを持っていたブレットにとってこれは失意のヒールターンであった。
そして、経済難になっていたWWFはWCWに高給取りであったブレットを売ることを考えた。
ビンスからすればわがままなブレットにでていってもらい、自身のいう事を聞くショーンやカリスマ性のあるアンダーテイカーに残ってもらおうとしていたのだろう。
そのためにはブレットの持っている世界ヘビー級王座を他の選手に明け渡すしかない…。
ブレットはアンダーテイカーやストーンコールドのことは認めていたので彼らならいいといっていたが、ビンスが打診をしたのはショーン・マイケルズであった。
これがのちに、悲劇がおきてしまうきっかけになるのだった。
1997年11月、カナダ モントリオール。
そこではWWE四大PPVの一つであったサバイバーシリーズが行われていた。
そのメインイベントはブレット・ハートとショーン・マイケルズのWWF王座をかけた一騎打ちであった。
事前の打ち合わせではブレット率いるハート・ファウンデーションとショーン率いるDジェネレーションXがお互いに乱入しノーコンテストとなる…というものだった。
しかし、いざ試合が始まると…事前の打ち合わせと違う結果になった。
ショーン・マイケルズは掟破りのシャープシューターをブレットにかけた。
シャープシューターはブレットにとって必殺技の一つであった。
その時、審判はいきなりゴングを要請した。
ブレットは困惑する。
「ギブアップなんかしてない。そもそもこれは打ち合わせと違うじゃないか!!!!」
ブレットがギブアップをしていないのは誰の目から見ても明らかだった。
そう、ビンスはブレットをだましてしまったのだ。
これをのちに「モントリオール事件」といい、プロレスの歴史にその悪名を残している。
ブレットは怒り狂い、退団を決意…その後WCWに向かうのだった。
しかし…WCWに向かった後の彼は思ったような活躍をすることができなかった。
そして、1999年「超人類」ビル・ゴールドバーグとの試合の最中にケガを負いこれがきっかけで長期欠場の憂き目にあうのであった。
これがきっかけとなり、2000年には引退を発表。
長い間ブレットは沈黙を守っていた…。
もう帰ってこないのではないか、誰もがそう思っていた。
しかし、2010年
ブレット・ハートはWWEに戻ってきた。
長年のライバルであったショーンとは和睦を行い、和解をアピールした。
そして、その年のレッスルマニアで自身をはめたビンス・マクマホンと試合を行いビンスにシャープシューターをかけて積年の恨みをとうとう晴らしたのであった。
同大会で、ライバルであったショーン・マイケルズもアンダーテイカーに負けた事で事実上引退することとなった。
恐らくはショーンの引退ということもあり、最後の最後にブレットと和解をしたかったのでこういう形になったのではないかと推測している。
その後もたびたび興行に出てくるものの、もう年齢も年齢で完全にリタイアした状況になっている。
多くのモノが傷つき、涙を呑む中…最初から最後までプロレスのど真ん中でい続けたブレットは心底幸運の女神に愛された男だろう。
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