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【雑記】イヤホンを外すこと

聞くってことは身を開くってことで、身を開くことで異なる他者と出会うことができて……みたいな話をちょこちょこ色んな本で見聞きすることがある。

私が卒論で扱ったブーバーも、「鎧を脱ぐ」みたいな言葉を使って、普段聞けていない他者の声を聞くことを提示していたはず。そういう話、わかる気がする。

あるいは、ヴェイユだったら空白とかいうんだろう。体の中をからっぽにすることで他者の声が入ってくる。そういう注意の向け方が存在する。

「身を開く」「鎧を脱ぐ」「空白になる」
色々と言い方はあるわけだけど、私はそういうものをふわっとイメージしながら、現代的に「イヤホンを外す」って言ってみようと思う。

街中出ると、イヤホンしている人多いですよね、もう。若者だけかもしれないけど。
電車のなかとか歩いている時とかはもちろん。カフェとかどこか屋内スペースとかでもしていたりする。はい、私の話でもあります。

疲れているときに、電車で赤ちゃんの泣き声が聞こえる。別に赤ちゃん何も悪くないし、お母さんも何も悪くないし、むしろ大変だろうとすら思うのに、思わずイヤホンの音量を2つくらいあげてしまう。
イヤホンは、私と世界とのあいだに明確な壁を生み出す。私はそれを、自分を守るバウンダリーなのかもしれないけど、他者の拒絶なのかもしれないとも思う。
ノイズキャンセリングみたいな言葉、そういう意味ではなくて? (だって他者とはノイズそのものでしょう?)

というわけで、イヤホンをすると音楽が聞こえるわけですけど、それ以上に他者の声が聞こえないわけです。
だから私たちは、ときどきイヤホンを外してみないといけない。

イヤホンをしたままだと、店員さんにレジとか打ってもらってお金渡してレシート受け取って、そして足早に帰ることになる。音楽を止めることとか片耳外すこととかはあるけど、実はあんま変わんないと思う。拒絶したままだから。
そこには、面倒なコミュニケーションは発生しないし、予想外の出来事も起こらない。買い物に予想外が起こったらまずいですものね。(ここで、マルクスが命懸けの飛躍とか名付けたのはなんだったんだろう、とも思う。)

ただ先日、イヤホンを外すことの多い日があった。
そうすると、店員さんとふと話してみる機会が生まれてきたりする。
そうすると、店員さんが近くの画家の記念館とか、近くのいい本屋とか勧めてくれる。
そうすると、その画家が自分の地元と関わりがあったり、その本屋が自分好みの空間で人に勧めたくなったりする。
これが「イヤホンを外す」ということなんだ、と思う。思わず話してしまう、それは同時に思わず聞いてしまうということでもあって、聞くことは想定外の場所へと自分を連れ出してくれる。

もちろん、どんなお店でもそうはならないかもと思う。というか、そういうことのあるお店が減っているのも確かだと思うし。
私が、時間と余裕がある時は、個人店とか小さなお店行こうとしているのも間違いなく関係する。

とはいえ、問題は世界の側か自分の側かどちらかに還元されるわけではないから、私が世界に向かい合う態度はやっぱり大事になる。
イヤホンを外して向き合えるのか、どうか。
予期せぬ声を聞けるのか。予定を変えたり、急ぐのをやめたりして、その声に向き合えるのか。
そういうことがときには問われる。

そんな文章を、私はいまイヤホンをつけながら書いている。

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