途中である自覚
私たちは全員そろって何かの途中だ
生きて死ぬまでの途中
飢え死にした人を救えなかった過去とこれから救いたい想いの途中
民主主義へと向かって多くの血を流して正解となりつつある途中
自殺した大切な人への悲しみを乗り越え前向きに生きる途中
不満や愚痴をこぼしながらもどこか幸せを夢見て目指す途中
厳しい教育とゆとり教育の極を行き来しながら善い教育を探す途中
昨日から明日への途中
同時に過去を否定し、“いまこの状態”を指さして否定したり肯定したりする意見は多い。
“絶対に○○の人が△△という環境にいることはおかしい”
“これまでの教育は間違っている”
“強制は間違っており個性は絶対に尊重されるべきだ”
“共産主義は間違っている”
こういった言説はいわゆるism(XX主義)といわれるような論理のもと提出されているように感じられる。
そこには自己矛盾がある。
Ismには基本的には常にその究極的な形があり、それを捉えてismの実現状態としているかと思っているのだが、果たしてそのismが達成された状態などいまだかつてあったのだろうか。
見方によってはAA世紀のBBという地域でCCという状態だったという言い方を前提に“YES”が返ってくるのだろう。
しかしあまりに多く“今までは間違っていた”論を途中であることを無視して耳にすることが多いことに疑問を抱く。
例えば、“個人的な辛さ“を無視すると、”途中としての日本の今“はそれほど悲観する状態なのだろうかと感じる。
とりわけWWⅡ直後の状態から21世紀の今に至るまでの期間のみを捉えても、多くの市民・政治家・企業等が心血を注いで築き上げた“現状“を果たして絶対的に否定できるのだろうか。
それは民主主義を前提にしている以上、自分も含め、自分や家族の選択も否定することにはならないのだろうか?
70、80歳を越える人間が行ってきたことを否定できるものだろうか。
むしろ私には、その様なうえで現在、“これも解決すべきだ”という課題を見つける先進国が日本であるようにも思われる。
例えば“いじめられた子供が気軽に相談できるプラットフォーム”などは、“いじめられた側にも問題がある”“学校に行かなければならない”という前提の様なもの、一般言説の様な類を取り払い、新たに1億人を超える人間を細分化してより各個が“らくに生きることができる”社会を提供しようとする試みに想える。
この様な課題の発見とアプローチをしているのは、“自分の安全が保証された人間”だからできるという要素もあり、その要素には、いままで努力してきた多くの先人の方の存在があったこと忘れてはいけないのではないだろうかと思う。
途中である以上、つまりまだその“理想形”が達成されていない以上、民主主義は正しいとか社会主義は間違っているとか議論するにはまだ未成熟なのではないか、さらに言うと成熟したという錯覚を持つ者が為政者になる以外には成熟し得ないのではないかとさえ思われる。
インフラが整い、道を歩いていて命の危険を感じることは少なく、10USDの肉体労働がある国に産まれた人間として、この状態を教育・政治・社会・宗教・文化・経済あらゆる側面から否定的に捉えきるのは難しいのではないかと思っている。