お金と信用について
お金について細かい議論をすることに対してどことなく忌避したくなる様な雰囲気というものがある。
とりわけ“社会貢献活動”“ボランティア”と評される様な活動において“お金”を匂わせること、さらいに言うとその行動者が金銭を受け取っていること、その金額を表に出すことはよりその様な雰囲気を漂わせる。
まぁ一般的に言われる贈与論の様な話をしたいわけでも、リターンと名付けられた“見返り“を前提として行われているクラウドファンディングの話をしたいわけでもない。
(なぜ日本には基本手数料無料で1週間以内に活用可能なサービスが無いのか、知らないだけかもしれないが、よく分からない)
私は“社会“を”自己以外の誰かと接する空間“と捉えているので社会活動の定義は広範にわたるのだが、いわゆる社会貢献活動と言われ、ボランティア活動と言われる活動、それはすなわち自己以外の他者に対して(少なくとも初期段階の想い・目的としては)影響を及ぼし、他者の生活向上に資する活動とお金について考えることがある。
端的に言えば、その様な活動が金銭的ベネフィットを受けづらいことに対する違和感である。
前提の議論は多様に展開できるsが、これからを考え、また今苦しい想いをしている人を想い、活動するその行為は、本当に(資本主義という枠組みにおいて)価値を、すなわち金銭を受け取る手段としての価値を、出していないもしくは少ないものなのだろうか。
私は“株式会社”“資本主義”という在り方を否定するつもりは毛頭なく、それらが織りなす競争というのは往々にして人類の(科学・見かけの文明の)発展には大変大きな役割を果たしていると考えている。
そして民主主義も同じくだ。
これらの“理想≒主義”が果たす機能は大変大きく、だからこの様なことを書くことができ、投稿することができるのだとも思う。
その中の枠組みとしてどうも社会貢献活動、ボランティアに対する価値というのは極めて低い様に思う。
もちろんそれは評価を下す側も活動する側も共に責任を負っている。
この解決策として提示すべきだと考えているのは、評価する側、時に支援する側の課題に目を向ける姿勢にあると考えている。
分かりやすいのは寄付
寄付者は寄付する行為を通して自身の課題を解決していると捉えることはできると考える。
・理想の社会があるが、自分だけでは実現が困難であるという課題を理想とする社会に向けて活動する人間を支援することで課題解決を果たす
・善意を基に何かしたいけど何をしたらよいか分からず、決めあぐねているが何もしないのは心地が悪いという課題を解決するために自分の想いと近しい活動に支援という形で解決を託す
ほかに考えているのは、
・広く様々な社会について考える機会をこれからの世代に提供したいがその方法が無いという課題解決を、実際に現場で活動する人と共に提供することで果たす
・培ってきた経験や能力、手元にある資金をこれからの社会のために活用したいがその活用の場がなく、かつ孤独になってしまうという課題を、経験や能力・資金が必要な現場で活動している人間が活動の場を提供することで解決する
これらは価値のないことだろうか?
最後の例は日本の高齢の方(私は知識も経験も人脈も人によっては資金も豊富なこれからにとって貴重な存在だと捉えている)が活躍し続けるか、もしくは世間一般でまるで本人の意図も介さずにいわれているような高額な医療費、税金の使い手として存在するかの大きな分かれ道であるように思う。
何も社会で認められがちな素晴らしい経験や知識、高額な資金など必要ではない。私たちの様な若者にとってはそれら全てが貴重であり、もっと言えばその先の私たちの活動によって明日が善くなるかもしれない、ましになるかもしれない、絶望ではなくなるかもしれない人にとっては本当に些細な、現場にいると見落としがちな些細な、ことが今日を変えるかもしれない大きな要因・背景となりえるのだと考えている。
結論がずれそうだが、いずれにせよ、私は私も含めた共に活動する方々がこの社会の枠組みの中で自分の人生を諦めるような社会活動をするような状態にはしない。
優秀な方々がお金を理由に社会活動から離れるような社会では、その課題の解決は遠のくばかりの様に思われる。
一見甘ったれたように見えて大変厳しい道だというのは自覚しながら、本当に目の前の人間をどうにかしたいのであれば、“自分の金がないから”“自分の家族のために”という言い訳を持って活動をすることを断念することなど無いように動くことは現場で動き続けることど同様に重要なことだと思う。