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またアディクション

お昼ご飯をさっさと済ませて、一時間の休憩の間に散歩へ行く。小川の流れる遊歩道沿いには今だったら紫陽花がまだ見頃で、歩いていると次々に色の違う花が視界に現れる。並木の蔭に咲いた紫陽花の上を木漏れ日がくるくる踊っているのを見ているだけでおもしろい。四阿に座っていると風が気持ちいい。

そういうことで自分を満たすことができるときもあれば、できないときもある。今日は自然を感じる体だった気がする。

ここのところ仕事が忙しくなって、疲れていたのだと思う。そういう時ちょっと息抜きに散歩でもしようと思っても、ただ風を感じるとか、ただ街の音を聞くということができなくて、ついつい溜まっているタスクのことが頭に浮かんできてしまったりする。雑念というのか。

延々と振ってくるタスクをひたすらこなしていく終わりのない作業に体が特化してしまいそうになる。それに抵抗しつつ生き延びることができるかどうか、そういう戦いを死ぬまで続けなくてはいけないのか。

疲れているとセンサーが鈍感になる。なにも感じなくなる。けれど人間は刺激のない状態に耐えられない。だから強い刺激をもたらすものに寄りかかってしまう。

本当に私を救ってくれるものは、弱い刺激であると思う。あるいは村上春樹の言葉で言えば「小確幸」か。ささやかなものをしっかりと感じ取らなければならない。しかしここにジレンマがある。

弱い刺激を感じるためには、感度の高いセンサーが必要になる。しかし高感度のセンサーは強い刺激を受けたら壊れてしまう。しかも現代は刺激の強い商品や、その広告で溢れかえっている。

これは前に詩を書いている知人が言っていたことでもあって、曰く、私は意外な所に咲いているお花にびっくりしたいのに、街には私をびっくりさせようとする広告が溢れていて、それで私は疲れてお花にびっくりすることもできなくなってしまう、と。

彼女はそれを「びっくりストックがなくなってしまう」と表現していたけれど、私にはそれがすごくわかる。強い刺激を受けすぎて、ささやかな驚きを感じ取れなくなってしまう。

このことはアディクションにも深く関わっていることだと思う。いま読んでいる赤坂真理の『安全に狂う方法——アディクションから摑みとったこと』という本で、このことについてとても鋭い洞察が述べられていた。私が以前不可逆というアカウントで考えていたことともかなり繋がる内容だった。


 人類の問題としてアディクションを考えてみたい。人として幸せになるために、だ。アディクションから回復するためにではない。回復は手段であって目的ではない。それに、どこに戻りたいというのだろうか。そもそも元いた世界がつらかったからアディクションが始まったのではないか。アディクションでそこから逃れたかったのではないか。
(中略)その方法自体、ダメージの大きいものだったということは、始めたときには知らなかった。あるいは頭では知っていたとしても、今ここにある苦しみから逃れることで精一杯だった。切羽詰まっていた。
 それだけの苦しみがあったということだ。本当はその苦しみ自体を取り扱えればいちばんよかったかもしれない。けれどそんな方法はわからなかったし、苦しみに直面すること自体が怖かったのだ。
 かくて、それを覆う方法を見つけた。一般的にアディクション(≒依存症)とみなされているものは「最初に傷を覆う方法」のことである。

赤坂真理『安全に狂う方法』

著者は「アディクション」と言う語を日本語の「依存症」よりもっと広い意味で捉えている。依存性のある物質に限らず、あらゆる物事に対する執着、あるいは著者の表現でいえば「固着」のことを指す。なにかに取りさらわれたようになってしまった状態であり、例えば恋愛などもそのひとつである。と同時に、著者はすべてのアディクションを恋愛のアナロジーで考えているようでもある。

アディクションとは、主体性を発揮したくてもできない状態のことだ」
「アディクションとは、対象とピタッとくっついてしまうことだ。恋愛関係のように」
「最もよくあり、逃れにくいアディクションが、『思考』であると思う」

まだ半分くらいしか読んでいないので本の内容には深入りしないけれども、非常に面白いし、著者自身のの問題と向き合った実践の記録でもあるため、とても役に立つ本だと思う。瞑想のことについても結構触れられている。


で、最初の話に戻ると、自然を感じたり、ささやかな驚きで自分を満たすことができるときもあれば、できないときもあることについて、まさにアディクションが深く関わっているように思える。

そういうささやかな物事を感じ取れない体であるとき、私は疲れているのだけれど、本当にまったく何もできないというわけではない。SNSを延々と眺めるとか、タバコを吸いまくるとか、そういう強い何かに取り憑かれてしまっているから、弱い刺激を味わえなくなっているのだ。

本当は木陰でぼんやりしているのが一番幸福だ。ぼんやりできないとき、私は何かに取りさらわれて、あるいは取り憑かれている。それはおそらくそうしなければ日々を乗り越えられなかったからで、まさに赤坂が言うように、今いる世界が苦しくて逃れたいから、なにか手っ取り早く私をさらってくれる何かに手を伸ばしてしまう。

なにかが私をさらってくれるということは、私はいなくなるということだ。例えば幼い頃ワンピースの漫画を夢中で読んでいた時だって、私の意識の中から「それを読んでいる私」は消え去っていた。でも今ワンピースを読み返しても、めちゃくちゃ面白いのだけれど、私がいなくなることはない。もう中身を知っているからだ。既に知っている刺激はだんだんと刺激では無くなっていく。サリエンシーが弱まっていく。

知らない話題が次々と流れてくるSNSに人が容易に取りさらわれてしまうのも頷ける。退屈とアディクションには微妙な緊張関係がある。人はじっとしていられなくて刺激を求めるのだが、ほどほどの刺激ではすぐに飽きてしまう。かと言って強い刺激を味わうと、もう弱い刺激では満足できなくなる。そして何度も何度も同じ刺激を求めるのだが、それとてサリエンシーが弱まっていくので、ドラッグの摂取量が増えていくようにエスカレートしていく。


大人になるにつれていろんな刺激に慣れて、不感症になっていく。しかし欲望が消えなければ苦しみは消えない。新しい刺激ばかり求めていても、子どものように、初めて見る世界の不思議を味わうことなどそうそうできるものではない。

だから私が求めるべきは凪なのだ、と思う。大きな波を求めるのではなく、静かな水面に微かに揺れる波紋を感じることだ。

敏感なセンサーを持つことは難儀なことでもある。HSPとか感覚過敏といった体質はもっぱら不便なものとして語られる。繊細であることは壊れやすいということだ。

繊細で壊れにくい感覚器官でありたい。凪を見出すためにはやはり黙して坐禅を組むべきか。


もうひとつずっと思っていることがある。アディクションが原初の傷を覆い隠すために始まるのだとして、そのことによって生き延びることができるのならば、それは必要なことだったと言えるはずだが、やがてアディクションそのものが問題となってくる。どこまで行ってもアディクションが付き纏っている。仮にそこからどうにかして抜け出すことができるとして、その頃にはすっかり最初の傷のことなんて忘れているのではないか? その時はじめて無傷だった頃のように、それでいて傷つきにくい私で、世界と出会い直すことができるのではないか?

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