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春と子ら(日記と短歌)
動けなくなってしまった。ご飯を作らなければならないのにもう夜の10時半だ。最悪ご飯は作らなくても溜まった食器を洗わなければならない。
杉田俊介氏のうつ病の実感を綴った投稿を思い出してしまった。そして同時に『ゴドーを待ちながら』のことを思った。ある種の霊性みたいなものが失われてしまったように感じる。持っているときは持っていることを知らず、失って初めて知るなにか。それが再び現れると信じて待っている。いや、私はそれが現れると本当に信じている。それはあると知らなければあり、ないと知ればまったくない。私はそれが現れると信じているが、それはいま現にないのだから感じることができない。
待つよりほかになにもできない。しかしそれは思っていたのと違う形で、すべてを忘れさせる出会いの衝撃として到来することもあれば、静かに湖面へと浮上するように到来することもある。しかしそのどれもが、そのときの偶然のあらわれに過ぎないのだから、同じものの完全な再現を期待している限り、出会うことはできない。期待してはならず、ただ待つしかない。
あると知らなければあり、ないと知ればまったくない。だから必要なことは待っている間に、それがないことを忘れること、ぺちゃくちゃお喋りをして、私がなぜ、何を待っているのか、ほんの一瞬でも忘れることではないか。
しかし我に帰れば私はそれがないことを思い出してしまう。そうして何度も反復していると、だんだんと、忘れていることが良いことなのか、思い出していることが良いことなのか、わからなくなってくる。そしてたぶん、どちらが良いことでも悪いことでもないのだろう、というふうに思う。そしてその反復こそが「わたくしといふ現象」であり、オンとオフを繰り返し、「風景やみんなと一緒にせはしくせはしく明滅しながらいかにもたしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明です」。
あの桜の木に登っている子ども僕とおんなじ名前みたいだ
音の鳴るくつで何度も踏んでいるそれが地球だわかったか、ガキ
少女らが「見て!」と嵐を巻き起こし、散った桜がまた舞い上がる
木の下で誰かが君を呼んでいる名前の意味を知らないままで