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日記 急須をもらったこと バイクを買ったこと 龍が如く8をやったこと

心がざわつく。ゆきどけみずゆきどけみず。日記でも書いてみる。日記でも書いてみようと思うときが増えた。でもなかなか書かなかった。億劫さに勝てない。生きることは億劫である。すべてが億劫である。

最近よくお茶を飲んでいる。良い急須を探しているとあちこちで言って回っていたら彼女の母親が良い急須と湯呑みをくれた。それから毎日ほうじ茶を飲んでいる。マグカップにティーバッグで淹れて飲むよりも、小さな湯呑みで飲むお茶は美味しい。この大きさがちょうど「もう一杯」を誘発するのだ、と彼女が分析して言った。手のひらにすっぽりおさまるサイズ。

キッチンには木のスツールが置かれている。(シンクは低いので立って作業をしづらいから、いつもこのスツールに座って洗い物や野菜を切ったりする。)ケトルを火にかけて、急須に茶葉を入れて、スツールに座って待つ。ただ、待つ。お湯が沸いたら急須に湯を注いで、湯呑みと一緒にローテーブルへと運ぶ。座って煙草に火をつける。三口ばかり吸ったら湯呑みにお茶を注ぐ。お茶を飲む。タバコを吸う。お茶を飲む。タバコを吸う。湯呑みに茶を注ぐ。タバコを吸う。茶を飲む。タバコを吸う。茶を飲む。湯呑みに茶を注ぐ。タバコの火を消す。茶を飲む。やがて急須が空になったらまたお湯を足しに行く。

このサイクルを延々と繰り返して時間が過ぎるのを待っている。お茶があってよかった。おかげで少し落ち着ける。


ほかに最近よかったこと。バイクを買った。アクセルを回したぶんだけ前へ引っ張られるあの快感は何にも代え難い。CL250は低い回転域でドコドコ走るのが得意なんだけど、それでいてアクセルを開けたときの加速の伸びもしっかりと感じられていい。バイクは車体と一体となって走る乗り物だから、車よりずっと身体の拡張という感じがする。自分の身体が!! 高速で!! 走っている!! って感じる。

この前は彼女を後ろに乗せてラーメン屋に行った。これからはどこにでも行けるんだな、と思った。もちろん二人乗りしている時はいつも以上に安全運転を心がけている。彼女がすごく楽しそうにしていたので僕も嬉しかった。

しかし今のところまだ遠出はしていないので、そのうちにもっと気持ち良く走れるところへ行ってみたい。前に叔父にバイクを借りて高知の海沿いを走った時は本当に気持ちよかった。叫び出したくなるし、本当に叫んだ。あとは林道もちょっとくらいはいけそうなバイクなので、オフロードも走ってみたりなんかして。転んじゃって、でもちゃんとプロテクターつけてたから大丈夫だったー、なんて言ったりして。とか調子こいたこと言ってたらめちゃくちゃ大怪我したりして。

バイクで加速すれば悩み事なんて後ろに吹っ飛んで行ってしまう。これはマジでそう。加速している間リアルなのは物質とスピードだけだ。そこに精神的な煩悶が入り込む余地はない。だがしかしバイクに乗るということはただ思い切り飛ばすことだけではない。時には信号で止まり、渋滞にはまり、道を譲ったりする。それが交通社会の中に存在するということだ。それでも、ひらけた道で目の前に一台も車がいないとき、迷わずアクセルを開ける。せめてそれくらいの生き方をしよう。


龍が如く8がすごく面白かった。桐生一馬から春日一番への主人公の継承は、7で完全には成し遂げられなかったからこそ、7外伝、8と、桐生は結局舞台に立ち続けている。桐生一馬という物語をどう終わらせるのか。「堂々のフィナーレ」を迎えるタイミングは既に逸したと言っていい。そうではなく、桐生は数々の仲間を見送りながら生き延び、病と闘いながらも、生に希望を見出そうとする道を選んだ。
そうして今作でも再度重要なテーマとして立ち現れてきたのが「継承」だった。

桐生にはシリーズ過去作を通じて数々の信頼できる仲間がいた。しかしその中の誰に対しても、桐生は「あとを託す」と言ったことはなかったのだ。彼は常に「あとは任せろ」と言う側だった。そんな彼が、ついに自分の目の前に死がやってきていることを悟った。

そこへきて「エンディングノート」というド直球のゲームシステムである。桐生がやり残したことをやったり、思い出を振り返ったり、大事な人に会って心残りを果たすことで、能力が解放されてフルパワーに近づくというものだ。弱っていた桐生が、死を受け入れることで強くなる。
そして自分がいずれいなくなるということを強く意識する中で、桐生は「あとを託す」人物として春日一番を意識していく。

桐生は確かに伝説的な極道だった。主人公交代や桐生の引退は年齢的に避けられない課題とはいえ、あまりにも難題だっただろう。そのアンサーとしての春日一番という新主人公は、実に見事な采配だったと今作で確信した。春日は桐生とは正反対のキャラクターだ。桐生は自分一人の力で解決しようとするタイプだが、春日は常に仲間に頼る。(そういうキャラクターだからこそ、春日が主人公を務める7以降ではゲームシステムが一新され、ドラクエを踏襲した、パーティーを組んで戦うターン制バトルRPGになった。)

春日は桐生とは違う選択をする主人公だ。彼は桐生ほど血の気の多い人間ではないし、桐生だったら即座に殴っているような場面でも、春日はまず対話を求めようとする。明るく朗らかで、 ワンピースのルフィを彷彿とさせる、仲間思いの熱い男だ。

継承とは、次の世代に自分と同じものを求めることではない。自分とは全く違う道を選んでくれるかもしれない誰かに、希望を託すことだ。ラストシーンは、それを実に感動的に描いた名シーンだった。(おまけにサブストーリーでも継承のテーマは散りばめられていて、キャバクラFour Shineでのユキから小雪への継承というイベントではユキが「私にはできないことがあなたにはできる」というメッセージを伝えている。)

桐生が戦うラスボスは、むしろ春日一番と深い因縁のある相手だ。春日が彼と戦った方が、普通に考えれば頂上決戦として綺麗な構図になる。しかし桐生は、かつて東城会トップという立場にいたことがありながら極道の行く末のために何もしなかった自分にこそ責任の一端があると言って、自ら彼とのケジメをつけることを名乗り出る。

今までの桐生の戦いは、常に彼が宿命的に事件の中心に引き寄せられ、その運命を受け入れてすべてを背負い、拳でなんとかしてきた、というものだった。しかし今回は少し違った。桐生はあくまで戦うために立ち上がった仲間たちの一人でしかなく、実際今作で起こった出来事に、桐生自身の直接的な責任や因縁はまったくない。しかしその彼が、「かつて何もしなかった自分にこそ現在起こっていることの責任がある」と言って、ケジメを引き受ける。その差は目立たないがとても大きい。

次の世代に希望を継承するために、次の世代への責任を最後まで引き受けなくてはならないのだ、という意志。未来を生きるものたちの糧となるように、今まで自分がそうしてきたように、絶対に倒れない背中を見せ続けること。桐生はそう決意した。

桐生の存在に勇気づけられ、彼のように強くありたいと願いながら立派に生きている人がたくさんいたのだということに、彼はいまようやく気がついた。そして彼の物語は終わりに近づきつつも、まだ完全には終わっていない。もうしばらくはしぶとく生き続けるだろう。しかしそれがいい。心の準備もできないうちに「あとは頼んだ」と言って戦死したら残るのは呪いだけだ。桐生は呪いにはならない。彼は最後まで強く生き抜いて、龍の刺青が刻まれたその背中を見せ続けることを選んだ。その背中を見れたということがとても嬉しかった。

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