レスリー・チャンというスターがいた
この春は、気温の振り幅がいつにも増して大きいせいか、3月の後半から先週末まで頭も体も本当に怠かった。何の罰ゲームかと思ってしまうくらいひどく、平日は仕事で凡ミスしたり、週末は必要な家事や買い物をする気力も出ない日があったりと、もう散々な状態だった(T_T)
そんなこんなで今年はもうとっくに過ぎたが、「4月1日」という日について。この日について聞かれたら、大抵の人はエイプリルフールと答えるだろう。けれども、ある人はこう言うかもしれない。「レスリー・チャンの命日」だと。
レスリーが亡くなって今年でちょうど20年。彼の事について、私なりに振り返ってみようと思う。
レスリー・チャンとは誰か?
2003年4月1日、香港で一人の男性が高層ビル(ホテル)から飛び降りて自ら命を絶った。その名は張國榮、世界的には英語名のレスリー・チャンで知られ愛された人だ。70年代に歌手として芸能界デビューし、80年代以降は数多くの映画に出演。1990年代初めに一度引退するも、1年ほどで復帰して精力的に活動、香港のみならず、他の中華圏の国や日本含めたアジアの国々で絶大な人気を誇った人物だ。そんな彼の死は、当時経済不況やSARS流行の煽りで低迷していた香港だけでなく、世界中のファンに衝撃を与えた。没後20年を迎えた今でも彼の人気は根強く、今年の命日も彼が亡くなった場所に多くの人が集まった様子が、サウスチャイナポストや毎日新聞等、色々なメディアで取り上げられている。
レスリーとの「出会い」
…と、彼の事をメチャメチャ知ってるかのように書いたけれど、平成1桁代の生まれの私は、彼の活動もその死も知らずに育った。そんな私が初めてレスリーを知ったのは2013年、彼の没後10年の時だった。今はもうないシネマート六本木で特集上映が組まれ、そこで彼に興味を覚えた当時学生の私は、お金をやり繰りしながら彼の映画を4本見に行った。
陳凱歌(チェン・カイコー)監督作『花の影』『さらば、わが愛/覇王別姫』、爾 冬陞(イー・トンシン)監督作『夢翔る人/色情男女』、潘文傑(プーン・マンキ)監督作『上海灘』の順に見て、それまで見た事のないタイプの作品群とレスリーの存在感に圧倒された。幼少期のトラウマから誰も愛せなくなりジゴロになった男、時代のうねりに翻弄される京劇の妖艶な女形、嫌々引き受けたポルノ映画の仕事に次第にのめってく映画監督、戦前の上海で抗日運動に身を投じ裏社会に巻き込まれる男。他の俳優なら断りそうな役柄も見事に演じた彼が、とても新鮮に感じられた。
ただ、その頃は映画館に通い出して間もない頃で、まだ学生で懐事情も寒く、加えて4本目の『上海灘』の出来にがっくりした私は(後で知ったが香港映画は作品によって出来不出来が結構激しい)、その後特集上映に行く事はなく、勉強や他の映画を見ていくうちに、レスリーの事は記憶の彼方に消えた。
「再会」と「違和感」
彼の事を思い出したは、それから5年ほど経った時。王家衛(ウォン・カーウァイ)監督作『欲望の翼』のリマスター版を見たからか、レスリーについてもっと知りたくなり、レスリーにハマった時期が暫く続いた。勢いで見聞きした彼の歌や映画を通じて、人懐こい感じと謎めいた気品、笑顔の裏にどこか陰のある雰囲気を漂わせる彼に惹かれた。誰かに憎まれたり拗ね切ったような役を演じた時でも、どこかに愛嬌があって憎めない感じがした。そんな人が、ちょっと低めの声で艶っぽく歌ったりするもんだから、彼にメロメロだった女性も多かったろう、とレスリーの人気に納得した。
そんな中で、ある「違和感」が芽生え始めた。なぜ彼ほどのスターが自ら死を選んだのかと。そんな疑問を持ちながら、彼の映画や歌に触れる傍ら、ネットや本でも彼に関する話を見るうちに、ある事に気づいた。レスリーが演じてきた役柄の多くは、20~30代くらいの人物だったのだ。彼の独特の若々しさがあったうちは良かったけれど、40代に入りその容貌に陰りが見えてきた状態でそうした役は厳しかっただろう。彼に関する記事や本では、その頃から俳優・歌手両方の活動が上手くいかなくなった、とあった。
折しも彼の仕事が減りだした頃は、香港映画が苦境にあった時期(1990年代後半)と重なっている。アジア通貨危機と中国への返還と前後して、映画の製作本数は激減し、制作に携わってきたスタッフはもちろん、有名な監督や俳優たちもその煽りを受けた。レスリーも例外ではなく、本業の歌手・俳優業だけでなく、一時期手掛けていた飲食業のサイドビジネスや、長年の念願だった監督業進出も、全て上手くいかなくなったという。また自身がバイセクシュアルである事を公表したり、1990年代後半でのライブで身に着けたハイヒールや妖艶なメイクが当時受け入れられなかったりと、色々な要因が重なって次第に鬱状態に追い込まれ、そして自ら命を絶ってしまった。
生前、自らを"workaholic"(仕事中毒とでも言うべきか)と表現し、一度引退した後カムバックしてまで仕事に取り組んだ彼にとって、最期の数年は非常に耐え難い日々だったと思う。
彼は今も生き続けている
レスリーの死から20年が経ち、香港の状況は大きく変わった。世界中を熱狂させた香港の映画・音楽はかつての勢いを失い、中国への返還から25年も経たないうちに、中国政府によって「一国二制度」は無実化し、香港の自由と民主主義は今や危機に瀕している。日本を含め、香港の文化に魅了されてきた世界の国々も、経済危機や紛争等を経験して、あらゆる不平等と矛盾が存在している。
そんな中でもレスリーの人気は未だ衰えず、香港では彼の回顧展が組まれたり、レスリーの歌をカバーしたアルバムも発売されたりしている。当時を知る人たちにとっては、彼と彼が生きた時代を懐かしんだり、またそうした企画を組んだ人たちは、その経済効果を狙ったりと、色々な思惑がある事だろう。目的はどうであれ、私のように生前のレスリーを知らない世代にも広まる良い機会になればと思う。
最後に、この記事を読んでレスリーを初めて知った人に伝えたい。彼は悲劇的な死を遂げたスターではなく、「自分の仕事を愛し、全力で取り組んで人々を魅了し続けた唯一無二の存在」だったと。この機会に是非、彼の作品に触れて色々感じてほしい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?