[映画]愛情を越して依存[MOTHER マザー]
7月に入り、自粛期間中に公開日が延期や未定になっていた作品が少しずつ上映されるようになってきましたね。先日、その中の1つでずっと気になっていた作品を映画館で観てきました。ちなみに、いまは映画館のほとんどが前後左右を最低1席ずつ空けて販売しているところが多く、空気の入れ替えを短時間で繰り返し行っているので、感染予防は徹底されていると思います。もともと、周りの人がいると気になってしまい、周りに人のいない席を選ぶことが多い私にとってはむしろ好都合な空間でした。
長澤まさみ演じる“ダメな”シングルマザーとその家族、そして彼女に関わる日常を描いた『MOTHER マザー』。自分の生きている世界とは次元の違う話と思いながらも、どこか自分とは重ねずにはいらない物語です。
~母親の愛情とは~
いきなり衝撃的なシーンからはじまる。
学校から帰ってきた息子が膝を擦りむいて血を流して帰ってきたのを見た秋子はその血を拭くのでも洗い流すのでもなく、何の迷いもなく舐める。傍から見れば異常な光景かもしれないが、本人にとっては十分な、そして真っ当な愛情表現なんだと思う。
事あるごとに「私が産んだ子なんだから―」と叫ぶ秋子。しかし、その普段の言動や接し方を見ると、息子である周平のことを“子ども”ではなく“モノ”としか見ていないように感じる。
ただ、難しいのはその行動を受ける側である周平の受け止め方や感じ取り方。一般的にはいき過ぎた行動を受けたり、心ない言葉を浴びせられたりする毎日の連続だが、生まれたときからそれが“当たり前”のように育ってきた周平からしたら秋子の態度や行動は普通なんだと思う。ましてや、周平にとって秋子はたったひとりの家族。幼いなりに違和感を覚えながらも、お金を振り込めと言われれば振り込む。何日も家を空けられたとしても帰ってくるまで健気に待つ。何があっても母親は母親なのだ。
それは何年経っても変わらない。16歳となり高校に通う年齢になってもふらふらとした生活は続き、その間に生まれた妹・冬華の面倒を見る。いわゆるホームレス生活の状態になり、児童相談所にお世話になっても、仕事をはじめるようになっても、根底にあるのは母親の存在。最後は秋子のゴタゴタに巻き込まれ、言いなりに従い過ごしていく。
秋子が周平から離れられないのと同様に、また、周平も秋子から離れられない。もしかしたら、実は秋子ではなく、周平のほうが依存していたのかもしれない。
~逃げないのか、逃げられないのか~
はっきりと言って、周平は何度も秋子から逃げるタイミングはあったと思う。学校の先生や知り合いの市役所役員、そして困ったら秋子がお金を借りに行く祖父母。いくらでも助けを求めれば助けてくれた人はいたはずだ。大きくなり出会った児童相談所の亜矢(夏帆)や仕事場の人々も同じ。親身になり周平や冬華のことを気にかけてくれていた。
それでも母親と“一緒にいること”を選んだのは周平。フリースクールに通い始めたときや働きはじめたときには自分の感情や欲望を出そうとした瞬間もあった。しかし、周平が選ぶのはいつも“自由”ではなく“共存”であった。
それは最後まで変わらなかった。エンディングで巻き起こる殺人事件。周平は秋子をかばい続けたまま離れ離れになることを選んだのだ。
小見出しにもつけたように周平が秋子から”逃げないのか、逃げられないのか”は分からない。ただ、個人の感想としては、周平は逃げ方を知らなかったのだと思う。子どもにとっては親は絶対。いつでもどこでも1番近くにいてくれた大人が母親、という状況で育ってきたのだとあれば、周平の選択や生き方は正解なのかもしれない。
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