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小論文を学ぶ 2021.04.05

最近、投稿する記事が長くなってしまい、読む前に吐き気をもよおす人が増えているとの情報をつかんだので、路線を修正することに(笑)。

次に投稿する記事の見栄えをよくするために、「小論文を学ぶ」の引用部分を別建てに投稿することにしました。

後日、投稿する記事にこの記事の URL を貼っておくので、理解を助けるのに利用ください。

これだけ読んでも、「なんじゃこりゃ」 by 松田優作  になっていまいますので、お気をつけください(笑)。

chihaya さんながた師範なら、読んじゃうかもしれませんがね(笑)。


「小論文を学ぶ」の163ページ~。「私が何をしようと私の勝手」という理論である。他者に迷惑がかからないと自分が “思う” 範囲内で、自分にとって最も目的合理的と “思う” 行為を選択することは、なるほど合理的判断に違いないからである。
だが、そうした “合理的” な判断が蓄積された結果、政治家は自己の保身と利権だけに走りマスコミも大衆迎合路線で購読者数と視聴率だけに気を配り、・・・・規範が失われたから規範を取り戻そうというぐらいのことならば、小学生でも言えることである。・・・・
ポスト・モダンの時代にあっては、権威や権力を拠り所にしたモダニズムの手法は使えない。・・・・現代の多元主義にはそぐわないことは明らかである。学校でもしばしば「個性を大切に」と言いつつ一方で画一的な校則を普遍的規範に仕立てる発想が強く存在するが、これが端的に矛盾する指導であることはいうまでもない。・・・・
結局いまここで問題になっていることは、個人と公共性をどう調和させるかという問題であるが、・・・・それは、リベラリズム(自由主義)とコミュニタリアニズム(共同体論)の論争である。両者の特徴を比較してみると、リベラリズムは個人を公共性よりも重視しようという立場であるのに対して、コミュニタリアニズムは公共性ーーーというより共同体といったほうがいいがーーーを個人よりも重視しようという立場である。・・・・
すなわちリベラリズムの理論的前提である個人なるものは「負荷なき自己」であり、そんな文化的に無色透明な「個人」など存在するはずだいだろう、というのである。・・・・ゆきすぎた自由と平等を是正すべく規範が求められる公共性の復権の時代でもある。・・・・
多元主義や相対主義や個人化の時代ということからすればリベラリズム側の個人主義に立脚すべきことは明らかであるが、一方ではシステム解釈共同体の存在論的な第一義性からすればコミュニタリアニズムの側の公共性重視の考えにすり寄りたくなる。
すでに異文化理解のところでも述べたように、現代は差異ある者同士の理解が求められている時代であり、それがまた「承認の政治」という形で人権概念の基本にもなっているが、何らかの具体的な共同体に属している者にとっては自分が属している共同体以外の文化は容易には認めがたいのも事実である。つまり、人は、いくら口先で「多元主義」を唱えてはいても、実際に自分が差異ある現場に遭遇すると、途端に相手の違和感だけを感じ取り自分の城に逃げ込んでしまうものである。
いまわれわれに求められているのは、そうした自分の城に閉じこもって「みんな好きにしろよ」と開き直ることではなく、あるいはまた、そうした悪しき相対主義の愚を “反省” して「みんな仲良くしようよ」と “高み” から普遍的にものを言うことでもないことはすでに述べた。結局、差異ある者どうしが、差異を生み出す地平を共有することによって、一つのシステムの住人として自/他の区別を認めあうことが必要であることもすでに述べた。・・・・
167ページ~。・・・・個人が自己利益の観点から納得しながら公共のことを自主的に考えはじめる方法論なのである。それは単に「みんなのことを考えよう」と訴える「いい子」を振る舞うこととは次元が異なることである。・・・・何をめざして社会を組織化しようとするのか。・・・・
真の目的は、漠然とした言い方ながら、「善き社会」というのが最も適切な表現となろう。市民は皆「善き社会」をめざして自らの利益を求め自らの行動をその都度決定してゆく・・・・
リベラリストは、多元社会のルールとして ≪それぞれの人にそれぞれの自由を≫ と主張する。・・・・・それがまた、・・・・価値中立性の意味である。・・・・「善さ」が人によって異なることを前提にするかぎり、両者の “思い” を埋め合わせる手段は存在しないといっていい。・・・・
価値中立性がある意味で怖ろしい原理であるのはその点である。いわばそれは社会原理としては徹底して “傍観者的” なのである。価値中立を決め込めば、たとえ社会がどうなろうと、「ああ、そうなったんですね」と評論家的=学者的に高みの見物よろしく結果を報告することぐらいしかなす術はないことになる。・・・・
ボランティアとは、一方でリベラリズムの精神(自由主義)を意識しながら、他方でコミュニタリアニズムの目的(共通善)を目指す、いわば一挙両得の行為であるということになろう。・・・・傍観者的な “高み” から「個人の自由を尊重しよう」と叫ぶだけの価値中立路線を卒業し、平地に戻って人々の連帯や協調を信じて共通善を共に実現してゆこうとしはじめているといっていいだろう。・・・
かつての近代原理(モダニズム)では、自己が自己を統治すること(自己統治)をもって「道徳」と称した。それは、自己の内面的規律性の意味であり、すぐれて意志による感情や行動の統御の謂いであった。
だが今、ポスト・モダンの時代に際して自己統治の可能性は、単なる自己に閉ざされたものではなく、われわれという共同主観の地平にまで押し広げられ、システム論的な次元で人々のあいだで協働的に模索されるものとなっている。人と人が相互作用(贈与の交換)を繰り返しながら、次第に全員で共通善を構築してゆく可能性、それが現在の自己統治の可能性である。・・・・
148ページ〜。こうしたパターナリズムの対極に位置する概念として存在するのが自己決定権である。これは文字通り、自分のことは自分で決めることができるという考え方である。・・・・世の中すべての分野においてパターナリズムが重視される時代から自己決定権が重視される時代へ進んでいることは一目瞭然である。これは何を意味するかといえば、支配と権力を前提とする近代主義(モダニズム)が崩壊し、かわって対話と協調を軸とするポスト・モダニズムの時代がはじまっていることの証である。国家が国民を支配し管理し統制する、あるいは男性が女性を、教師が生徒を、医者が患者を支配し管理するという時代が終わろうとしている。人権の説明のところでも言ったように、現在人権概念自体が相対主義化されており、人間関係はフラットな地平で考えられるようになってきている。・・・・・少女買春(援助交際)は「性の自己決定権」の行使であり何ら非難に値しない、と主張している学者として有名な宮台真司氏は、自己決定権という概念をJ.S.ミルの「人に迷惑をかけなければ何をしてもよい」という危害原則として語る。だが、自己決定権がパターナリズムの対立語であることの意味を考えればわかるように、それは、行為する者の意識の問題ではなく、社会的な正当性の問題である。・・・ちょっとわかりにくいかな。要するに、自己決定権という概念は本人が勝手に使っていいような概念ではなく社会を望ましい方向へ構築するために使う概念である。その点を宮台氏はわかっていないーーー。
160ページ〜。民主主義のもとでは個人の原子的な独立性は一般に自己決定権という概念によって保障されるが、自己決定権とはそれぞれの個人が内心の自由に基づいておのれの行動をみずから決定できるという考え方である。そこには個人の独立性の概念が内包されている。だが、この独立性という概念がもたらす望ましくない結果について、すでに見たプラトンの言説とともに、次のような理論がしばしば取りざたされる。それは「ゲーム理論」と呼ばれるものであるそれは、自己の利益の最大化をめざす複数のプレーヤーが互いに駆け引きをしながら最も合理的な行為を選択しようとするゲームに関する理論のことであるが、最も有名な例題として「囚人のジレンマ」という問題があるので、それを簡単に紹介しておこう。・・・・・..................なぜ、囚人は目的合理的に行為したはずなのに、結果的には不合理なことをしでかしてしまうのか。答えは容易に分かると思うが、結局双方ともに相手の出方が分からないからである。もし相手との協力関係が成立していれば、当然のことながら、双方ともに「黙秘」をつづけて5年の刑期ですむはずのところなのに、そうした協力関係が結ばれないために不合理な結果に甘んじなければならないのである。社会的に各メンバーが独立した意思を持って、それを合理的に実現しようとするえば、多かれ少なかれこうした不合理な結果が帰結する。ノーベル経済学賞(1998年)に輝くアマルティア・センは、こうした合理的に振る舞う人間のことを「合理的な愚か者」(rational fools)と呼んでいるが、こうした「愚か者」は単なる理論上の話ではなく実際の世の中でもしばしば生まれる可能性がある。たとえば、ごみ処分場をどこかに作らなければその地区のごみが過飽和になることが分かっていても、処分場の候補地とされた地区の住民はおしなべて、独立した判断によって、自分の地区への建設に反対する。これはきわめて目的合理的な判断であるーーー安全で快適な生活を送るためには、他の地区がどうであろうと、自分たちの地区にそれを乱すものができることは不合理であるからーーー。だが、その結果、どこにも建設できないことになり、結果的には全員がごみを抱え込んで不快で危険な(非衛生的な)生活を余儀なくされる。理論上は「合理的な愚か者」を笑うことはできても、実際には笑うに笑えない状況が身近にあるのである。現代社会は、独立主体としての個人や集団が、他との関係が切れたところで閉鎖的に判断していることが多い。そしてまた、そうした判断が自由と平等の権利として保障されているがゆえに、全体としてみれば愚かな結果になってしまい、それが民主主義の不満となって現れている。ここを突破しないかぎり、真の民主主義のウマミも味わえないことは分かってはいるのだが、その突破方法が分からないことが多いのである。まさか民主主義を根本的に否定することもできないし(勢い余ってやってしまう人もいるが)、といって、きれいごとを並べ立てて戒めの言葉遊びで終わっていては何の解決にもつながらない。
157ページ。20世紀になって大衆社会が本格的に出現するのは周知のとおりである。これにともなって、上の積極的自由際限なくもとめるものとして20世紀的リベラリズムなるものが誕生する。20世紀的リベラリズムとは、大衆社会におけるデモクラシーすなわちマス・デモクラシー(大衆民主主義)が掲げる徹底した平等性を保証しようとするリベラリズムのことである。リベラル・デモクラシーを可能にしたリベラリズムといっていい。いま、リベラルという言葉が社会的弱者に寛容であることや人の痛みに敏感であることなどを指す言葉であるかのように思われているのは、こうしたいきさつから生じることである。アメリカの二大政党すなわち共和党(Republican Party)と民主党(Democratic Party)のうち民主党のモットーはリベラリズムであるが、ここにいうリベラルの意味はすぐれて20世紀的な意味であり、平等を限りなく保障しようとしう思想なのである。民主党の主張は歴史的にいってつねに弱者救済であり社会的平等の実現であった(近年はちょっと共和党よりの政策も打ち出してはいる)が、本来個人間での差異を容認するはずのリベラリズムがそうした平等主義に近づいていったことは、ひるがえって考えてみれば滑稽といえば滑稽な話である。しかし、これが歴史の真実なのである。20世紀のリベラリズムは自由という名とは裏腹に平等を徹底して希求しているのである。なお、日本にもそういえば「民主党」という政党があったやに思うが、あそこがどんな主義主張を持っているかは、まったくはっきりしないということは、つけ加えておくべきだろうか。・・・・

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