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西ヨーロッパ その1 ローマ帝国とフランク王国

インターナショナルに活躍されている方と知り合えるのも note の魅力
akkieさん

あるいは、世界各地を訪れていて、今はドイツの大学に通う Jadeさん、スペイン在住の明石 白さん、カナダで活躍する けるぽんちゃん


今回の企画は西ヨーロッパ。でも、あまり長いと、読んでくれないでしょうから、今日は導入部のみ。 どうして、読んでくれないって、わかるのかですって? それは、オイラが勉強嫌いだからに決まっているじゃないですか(笑)。

ローマ帝国はヨーロッパ、アジア、アフリカにまたがる大帝国。4世紀になると、拠点が西のミラノ(のちにラヴェンナ)とのコンスタンチノープル(今のイスタンブール)に分かれます。

あえて、西ローマ帝国や東ローマ帝国と書かないところが、オイラのこだわり。

覚えるためにはなりふりなんて、構っちゃいられません。それが勉強嫌いの真骨頂(笑)。ローマ帝国の西側≒西ヨーロッパローマ帝国の東側≒ギリシャ+トルコ+エジプトって、大胆に贅肉を削ぎ落しちゃいましょう。どうです、イメージわいて来ません? だから、公用語も西はラテン語で、東はギリシャ語、わかりやすいでしょう。

2500年ほど前に孔子も言っていましたが、国の運営で大切なのは経済ローマ帝国の領土の東西比較をしてみれば、西が経済的に貧しく戦力的にも脆弱(ぜいじゃく)。そして、西側は、ゲルマン人の侵入に対してゲルマン人の傭兵で対応しなきゃならないありさま。これじゃ、ゲルマン人に領土を奪われるのも時間の問題。そして、とうとう 476年、ローマ帝国の西側領土は、ゲルマン人の手に落ちちゃいます。

でも、間違えないでください。ローマ帝国は15世紀まで続いたんですよ。東ローマ帝国じゃなくて、ローマ帝国が。くどいようですが、西ローマ帝国が滅びたって事実はないんです。ただ、ローマ帝国の西側の領土が失われただけ。

新たな西ヨーロッパの支配者になったのが、ローマ帝国との国境地帯に住んでいたゲルマン人のフランク族。東に残ったローマ帝国の唯一の皇帝アタナシウス1世からコンスル(執政官職)の任命を受けたクロヴィス1世がフランク王国の最初の王と呼ばれます。

メロヴィング朝の名はクロヴィス1世のお祖父さんのメロヴィク(メロヴィクス)に由来。でもフランク族では分割相続の習慣があるため、相続のたびに分国され、アウストラシア(東王国)、ネウストリア(西王国)、ブルグンディアの3勢力となります。

その後、紆余曲折を経て再度、1つの王国となりますが、すでに貴族の意見が無視できない状態。分王国の宮宰による自律的な統治が主張されます。ちなみに宮宰ってのは、宮廷のトップのことで、王様じゃありません。

分国の1つであるアウストラシアで権力を握ったのが、宮宰のピピン1世(大ピピン)。時代が下って、王国唯一の宮宰となったピピン2世、そして息子カール・マルテルがフランク王国の実質的な支配者となります。

この時、東にあったローマ帝国の庇護を失いつつあったローマ教皇庁がカール・マルテルに接近します。息子のピピン3世が王になろうとした時、障壁となるのがメロヴィング家の神聖な血統に基づく権威。そこで、ピピン3世は策を講じます。それが血筋に勝る新たな権威をローマ教皇庁に求めること。

こうして、メロヴィング家から王位を奪ったカール・マルテルの子孫(カロリング朝)が王国の支配者に。ピピン3世の息子カール1世の8世紀後半から9世紀前半に王国の領土は最大となります。

西暦800年のクリスマスの日、ローマのサン・ピエトロ寺院でカール1世は皇帝に戴冠されカール大帝(フランス語でシャルルマーニュ)となります。神聖な血統ではなく、神によって戴冠された皇帝です。だから、皇帝は西の❓ローマ帝国(本当のローマ帝国は東の方にありましたね)を統治するだけでなく、キリスト教世界の支配も兼ねることに。

いかがでしたか、今日はこの辺にしますが、少しは、ヨーロッパに興味が持てました?

それでは、また、明日、この note 、この時間に、お会いしましょう。

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