偏見と向き合う笑い:空気階段とザ・マミィ、そして伊集院光
キングオブコント2021決勝の空気階段とザ・マミィのネタ(どちらも1本目)は、そしてそれらが優勝と2位という評価を得たことは、日本のお笑いが、偏見を利用するのではなく、偏見を可視化し偏見と向き合う方向にシフトしつつある(あるいはすでにシフトした)ことをはっきりと示した*。
* ザ・マミィのネタについてはこちらも参照されたい。すぱんくtheはにーさんのnote「偏見と悪意(あるいはキングオブコント2021/ザ・マミィのネタ1本目に)ついて。」
「偏見との向き合い方」に、より明確に焦点を合わせていたのはザ・マミィである。精神障害者への偏見を直接のテーマとするネタであり、「偏見」という言葉を明示的に使っていた。偏見が無さすぎる男に対して、精神障害者の男性が「少しは見た目で人を判断しろ!」と叫んだ後で「……悲しいこと言わせんなよ」と呟くくだりは、ひねりのきいた仕方で笑いと悲哀を同時に誘っていた。
空気階段は変態性欲者(マゾヒスト)への偏見を直接の主題としていたわけではないが、「固い仕事についている男が夜は素性を隠してSMクラブに通い、縄で縛られている」というクリシェを、凡庸ではない仕方で笑いに昇華すると同時に、そのクリシェに潜む偏見と向き合う契機を与えていた。警察官や消防士はこういうものだというステレオタイプがあり、SM愛好者はしかじかのものだというステレオタイプがあるから、このような蔑みを含んだクリシェが生まれる。空気階段のネタは、警察官と消防士がまさにSMクラブで縛られている最中に火事が起こるという状況を描くことで、このステレオタイプと蔑みの構造を止揚した。ここに私は冒頭で述べた「偏見を利用するのではなく、可視化し向き合う方向性」を見てとったのである。
近年の海外コメディドラマにもこのような方向性は見られる。人種差別を利用したエスニックジョークや、性的マイノリティをいじるような笑いは、現代では全く通用しない。作家にも演技者にも、差別と批判的に向き合いつつ笑いに昇華する工夫が求められており、それに成功しているとみなせる事例もある。しかし、視聴者が差別に対して厳しい批判的視線を向けている中で笑いを引き出すのは難しい仕事である。そして差別と本気で向き合う作品を作ろうとすれば、「笑い事ではない」領域に踏み込まざるを得ない。
アジズ・アンサリが脚本・監督・主演を務めたドラマシリーズ『マスター・オブ・ゼロ』(Netflix、2015-2021年)は、ニューヨークに住むインド系の独身男性が、恋人との関係やキャリアに悩みつつ、個性的な友人たちと楽しく交流するコメディとして始まった。シーズン1にもアメリカ社会における移民や世代間ギャップの問題への鋭い切り口は見られたが、笑いに昇華されている部分も多かった。だがシーズン2は、人種やジェンダーやハラスメントの問題に、さらに先鋭化された仕方で向き合う内容になり、シリアス度が増した。シーズン3になるともはやコメディではなくなった。シーズン2までの主人公デフの友人でレズビアンのデニースが主人公となり、女性同性愛者のカップルが一緒に暮らし子供を産むことをめぐる困難が、きわめてシリアスかつ哀切に満ちたトーンで描かれる。「笑い事ではない」領域に完全に移行したのである。『マスター・オブ・ゼロ』は上述の「差別を利用するのではなく向き合いつつ笑わせることの難しさ」に直面した上で、笑いから完全に離れるという極端なアプローチをとった作品だった。
さて、キングオブコント2021に戻ろう。ザ・マミィのネタのオチは合唱曲「春に」の歌唱だったが、これが「笑いへの昇華」として成立していたのかどうかは難しい。そこに至るまでの精神障害者と偏見が無さすぎる男のやりとりが、「春に」を歌い出した瞬間にこの歌の前振り、あるいはミュージカルの一部と化すというアスペクト転換におかしみを感じることはできる。しかし、これはやや高度なおかしみであり、実際私は見たときには笑えなかった。後で「こういうことか」と考え、「うまいな」と思った程度である。
他方、空気階段のネタのパンチライン——といってもその後もしばらくコントが続くのだが——は、頭を打って気を失った消防士が、かぶっていたストッキングを引っ張られて意識を取り戻した途端に「30分延長で」と言うという、落語「饅頭こわい」のサゲを思わせるわかりやすいものだった。これは即座に笑えた。
言うまでもなくどちらも考え抜いて作られた珠玉のネタだったが、誰もが笑ってしまう瞬間を作れたかどうかという点が、歴代最高得点を叩き出しての優勝と2位タイという結果を分けたといえるだろう。
ところで、伊集院光は自身のパワハラ問題の中での生放送となった10月4日の「深夜の馬鹿力」で、パワハラ問題には一切触れず、2日前におこなわれたキングオブコント2021決勝について話した。話題の中心は前述の空気階段とザ・マミィのネタだった。伊集院は「偏見との向き合い方」という観点から批評をおこなったわけではない。お笑いの一ジャンルとしてのコントがより演劇的な方向にシフトし、もはや笑えるオチを重視しなくなっている、という趣旨の感想だった。伊集院はこの流れを、東京03やかもめんたるの達成を引き継ぐものと捉えていた。私はなぜそこでラーメンズに言及しないのか不思議に思った。しかしすぐにこう考えた。ラーメンズにいま言及すると、小林賢太郎が東京オリンピック開会式の演出担当を解任されたことや、その原因となったラーメンズのネタに話が及ばざるを得ない(伊集院がそれらの話をしなかったとしても、リスナーはそのことを想起せざるを得ない)。伊集院はそれを避けたのではないかと思った。
同日の朝のラジオ番組で伊集院が自身のパワハラ問題に一言も触れなかったことについて、吉田豪は「笑いにできないレベルの案件なんだと思った」と語った(YouTubeチャンネル「久田将義と吉田豪の噂のワイドショー」内「【ラジオの覇王】伊集院光のパワハラ騒動【吉田豪×久田将義】」、10月4日公開)。おそらくそうなのだろう。だがこれに加えて私はこうも思う。吉田もテレビ番組の収録現場で伊集院が他の出演者を非常に気遣っていたというエピソードを語っていたが(パワハラについて擁護する趣旨ではなかった)、実際彼は、非常に色々なことに気を配りながらラジオで笑いを作り出してきた人だと思う。だからこそ、自分が加害者となり、4年間一緒にラジオ番組をやってきた人が被害者となっている今回の問題について、沈黙したのだろう。自分の城である深夜ラジオでこの問題について何かを言うことは、二次加害を生む危険性があるからである。
さらに深読みするなら、この回のラジオで、「笑いと差別」に切り込んだ空気階段とザ・マミィのネタについて語ったことは(その観点から批評したわけではなったとはいえ)、パワハラ問題に触れることなくそれに対する自身の立場を仄めかすジェスチャーだったとも解釈できる。(言動が差別的でパワハラ的だと批判されることも多い松本人志がザ・マミィのネタに96点という高評価をつけたのも、これに似たジェスチャーとして解釈できないことはない。たぶん間違った解釈だと思うが。)
以上は私の勝手な憶測にすぎない。けれども、伊集院のラジオでのトークが(特に最近は)、色々なことに気を配りながら、人を傷つけないギリギリの笑いを目指すものであることを知っているので、このような憶測をしてしまうのである。