料理でQueer主張に違和感
私が住むような外国人住宅地ではそう見かけないけど、町中に住んでいた知り合いのアパートには、パパが2人の家族が住んでいた。
と実際私の周りにまだいたことないんだけど、娘が公園で、ママ2人の女の子連れと話したそうだ。
LGBTのカップルどころか家族も居るドイツだが、今度アメリカよりQueerなレストランが来るというニュースを読んで、違和感しかない。
肌が黒い人魚のアリエル、時代的にあり得なかったアフリカンアメリカンが女王の19世紀初頭のドラマ、ジェームス・ボンドは旧時代的だから女にするという論争、何故に無理してこれまであったものを変えようとするんだろうか。新しく作れないものか?
冒頭のQueerなレストランに至っては、それこそ差別化しようとしてんじゃないのか、と思ってならない。
自分の性同不一致に対する偏見、壁を壊し生きやすくしたいと言うところは私的には静かに賛同するけど、声高に叫ばれると目も耳も閉じたくなる。
人間なんてそれでなくても十人十色、国も教育も育った環境も、宗教も価値観も違うもんだ。そこで主張してくるものが認められる時って、大概ネガティブな印象を持ってしてじゃなかろうか。
私もドイツでは少数派のアジア人で、それを主張する代表が声がでかくグループで動く中○人だと思うけど、溝と壁は高いままだと感じる。
私はここにいる、とアピールする必要はない。それが驕りだと感じるのならば、自分の中に、他者とは異質な部分を強調する、したい、認めろという気持ちがあるんじゃないか。
同調圧力の強さとそれを感じる怖さはわかる。だからといって声高に存在を叫べば、溝は深まり反発はデカくなると思う。
LGTBなんて言葉もできた昨今。緩やかな変化だとしても、変化して来てる表れだとおもう。
とはいえ、私は、LGTBの家族は子供の権利が蔑ろにされてると思ってて、夫婦には子供がいるという、それも偏見なんじゃないの?と思う。
文の終わりが、思う、だらけであるように、私見に過ぎない内容です。