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【小説】駆けて!ホンマチ⑳

 インターホンのボタンを押す。休業日ではあるが、住居を兼ねる構造の社屋には人の気配を感じる。程なくして「はーい」と女性の乾いた声で反応があった。

「あ、突然すみません。こちらに日比野俊夫さんはいらっしゃいますか?」

 緊張のせいで半オクターブ上ずった、よそ行きの声になる。

「はい、お待ちください」という歯切れの良い声で通話は終わった。

 全面がガラス製のドアからは中の様子が伺えた。小さなオフィスと商談スペースで構成されているようで、壁やテーブルは白を基調とされており、落ち着きと清潔感がある。

 室内の照明に明かりが灯り、女性がやってきてドアを開錠してくれた。

「どちら様でしょうか?」

「あ、神谷真汐といいます」

「ええと、主人とはどういった関係で?」

 色白で可愛らしい顔立ちの奥様からそう尋ねられた。私はその類の問いかけを想定していなかった。返答に困りながら、懸命に適切な言葉を思い浮かべた。

「あの、古い友人だと言っていただければ伝わると思います・・」

 苦し紛れに口から出た珍妙としかいえない受け答えに、我ながら頭を抱える。気恥ずかしさに顔をしかめた。

 だが、奥様は「まあ!」と破顔し、マスクをしているにも関わらず、口元に手を当てて「可笑しい」と、肩を揺すらせて笑った。

「ここで座って待ってて。あの人、今お風呂に入ってるの。最近朝風呂に入るようになったのよ。変な習慣で困っちゃう」

 何故か奇跡的に和んだ空気に戸惑いながら、私は用意していただいた来客用のスリッパに履き替えた。


 緊張しながら背負っていたリュックを下ろし、椅子に腰掛ける。普段は商談目的で使用されているピカピカの白いテーブルの天板の傍らに、商品のパンフレットが立てかけてある。

 プロテイン製品が紹介されている冊子で、蟹江町の特産品である白イチジクをフレーバーに用いた新商品がメインになっている。

 テーブルの向こう側には取り扱い製品の陳列棚があり、数種類のプロテイン製品を筆頭に、タブレット形状や粉末状の栄養機能食品、健康飲料水や備蓄用の食品などが誇らしげに並んでいる。

 家業の酒屋を承継した後に、時代に適応した事業形態へと舵を切ったのだろう。その経営判断は、見事に成功しているようだ。


 ドアノブを回す金属音と共に奥の扉が開き、グレイヘアーの紳士がこちらを覗いた。眼鏡の奥の目は驚きと戸惑いが入り混じったように私を見つめている。

 立ち上がって「こんにちは」と発した私の言葉は極度の緊張感で裏返り、上手く発声することができなかった。

 ポロシャツにハーフパンツというラフな出で立ちの紳士は、しきりと髪に手をやりながら近付いてくる。落ち着かない様子で私の前まで来ると「どうも」と会釈をした。

 お互いを見つめながら、沈黙の時間が続いた。天井に備え付けられたエアコンからの運転音が、やたらと耳に付く。


 私の目の前に、あれから50歳年齢を重ねたトシ君がいる。整髪料でべっとりと撫で付けられていたヘアースタイルは、清潔感のある上品な白髪混じりに変わっている。立ち姿は少し猫背気味になっているが、がに股ぐあいは変わっていない。

 何より、眼鏡レンズの向こう側の澄んだ瞳は、紛うことなき、あのトシ君だ。


 その目で私のことをじっと見つめているトシ君は、何を思うのだろうか。

 私を覚えてくれているのだろうか。私には一週間に過ぎないが、何しろトシ君にとっては50年という歳月が流れている。

 でも、覚えてくれていたからこそ、一週間前は私を追いかけてきたのだろう。

 50年前、無責任にも忽然と姿を消した私に対し、どんな感情を抱いているのだろうか。その件に関しては、私はいくら責められようとも、そのすべてを受け入れる覚悟を持っている。誠心誠意の謝罪と、感謝の気持ちを伝えるために、ここへ来たのだ。

 なのにトシ君を前にして、私は言葉が出てこない。激しくなるばかりの胸の鼓動を抑えられず、昂ぶる感情は操縦不能に陥ったままだ。


「真汐さん」

 そう私の名前を呼ぶトシ君の声は、不思議な感情を誘う。声色や呼びかけ方は、少しも変わっていない。目の前のトシ君が、50年前の姿に見えてくる。腹立たしくなるほど品格に欠け、呆れるほど無粋な態度だけれど、根は純朴で優しく正義感に溢れていた。

 私の中に芽生えた経験したことのない感情が甦る。


「まさか、会いに来てくれるなんて・・。僕ばっかり年食っちゃってかっこ悪いな」

 後頭部を掻きながら照れ臭そうにしているトシ君の素振りに、私は例えようのない安心感に包まれた。

 トシ君はトシ君のまま、あれから50年間ずっとあのトシ君でいてくれている。

「それよりも、この老いぼれがよく僕だとわかったね」

 思わず口走ってしまった。

「トシ君、何も変わってなくて嬉しい・・」


 その言葉を一笑に付したトシ君は、マスク越しに豪快な哄笑を上げた。「年寄りをからかうもんじゃないよ」と目尻に皴を寄せている表情からは、一気に緊張から解放された様子が見て取れた。

「真汐さんこそ、50年前のままだ。当然だけどね」

 トシ君は優しげに目を細めている。


 テーブルに向かい合って座る。そのシチュエーションに、喫茶ソルティーを思い起こす。甘酸っぱい感情に胸を締め付けられる。

 何から話せばよいのか頭の整理がつかないままだ。そうしているうちに、トシ君から質問される。トシ君も、私に聞きたいことは山ほどあるはずだ。

「真汐さんがタイムスリップしたのは、僕に追いかけられたときに?」

 私はこくりと頷く。

「やはりそうか。先週は真汐さんを前にして気が動転した。話しかけようと近寄ったが、マスクをしていないことに気付いて一旦引き返した。そのあと、どこにも姿が見えなくなった」


 そう、そこからすべてが始まった。


 50年ぶりに私の姿を見て慌てふためくトシ君。その姿に怯え、恐怖の余り逃げ惑う私。結果、めまいを起こし、タイムスリップを誘発。


 そのどれもが筋書き通りに用意されていたものだったのだ。タイムスリップ先での出来事もすべて。


「いやあ、50年も経つとね、確信が持てなくなることもあるんだよ。タイムスリップが本当にこの身に起こったということをね」

 トシ君はハーフパンツのポケットから小銭入れを取り出すと、その中から一枚のコインを探し出し、真っ白いテーブルの上に置いた。

「でも、こいつの存在が揺るぎ無いものにしてくれたよ」

 何の変哲のない五〇円硬貨だった。穴には赤い紐が通してある。


 首を傾げる私を、トシ君は面白がるように見ていた。

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