【小説】駆けて!ホンマチ㉓
1971年7月11日
日曜日の午後、蟹江町本町商店街には、休日のいつもの賑わいが訪れている。
強い日差しに対抗すべく、アイスキャンディーを手にしている子どもたちが目立つ。八百屋の店先には、夕飯の食材を買い求める主婦たちの姿も現れ始めた。咥え煙草のスーパーカブの運転手が苛立ちながら鳴らす警笛が、耳障りに響き渡る。
その中を注意深く見渡しながら、真汐の姿を求め歩く俊夫の焦燥感は、次第に喪失感へと変化していった。
マドンナから喰らった強烈なローヒールの一撃は、側頭部を触れると容易に確認できるたんこぶの膨れ具合が激しさを物語る。
本町商店街に沸き起こったマドンナの痛快劇から、もう一時間以上が経過しようとしている。
その間、真汐をずっと探しているが、俊夫はその姿を見つけることはできなかった。
「帰っていってしまった」
俊夫は空を見上げ、心の中で呟いた。
タイムスリップを起こすのも、タイムスリップ先から帰ってくるのも、いずれもそのタイミングは自分ではコントロールできない。自分の経験上、そのことは深く理解している。理解はしているが、非情にも突然訪れたその瞬間を認めるには、気持ちの整理に時間を要した。
電器店に展示してあるカラーテレビを、数人の若い女たちが取り囲んでいる。日曜映画劇場の時間帯だ。ブラウン管に大写しになる海軍の戦闘服姿が凛々しい石原裕次郎に、喜々とした声が上がる。
目的もなく、ただ本町商店街をぶらついている俊夫の視界に、少しくたびれた佇まいの飲食店が入ってきた。
このドレミ亭の椅子にちょこんと腰掛け、美味しそうにみたらし団子を頬張っている真汐の姿が思い浮かぶ。
腹が減っているわけではなく、むしろ喉の渇きのほうを癒したかったが、何故か無性に真汐と同じ物を味わいたくなった。財布を持たない俊夫は、ズボンのポケットを探るが、硬貨は持ち合わせておらず、出てきたのはしわくちゃになった一枚の紙幣だった。広げて岩倉具視のしわを伸ばし、なんとか様になったその500円札で支払いを済ませた。
真汐が座っていた椅子に座る。焼きたてのみたらし団子を手に、真汐の姿を思い浮かべる。
未来から迷い込んで来てしまった現実に戸惑い、不安感は極限に達していたのだろう。昇平橋の欄干で声を掛けたとき、真汐は酷く怯えていた。俊夫は真汐の不安を取り除くことに必死だった。どう接すればよいのか、苦悶しつづけた。
美味しそうにサンドイッチを頬張る姿に救われた。ほんの僅かな時間に過ぎないが、屈託のない笑顔も見せてくれた。
この昭和46年に、真汐が自分以外に頼れる人物はいない。それなのに、真汐に対して十分な役割を果たせなかった自分を、俊夫は悔やんでいた。
「ねえ、あの子のこと探してるんだけど、見かけなかった?」
不意に問いかけられ、俊夫は顔を上げた。マドンナだった。斜め後ろに、傷だらけの高倉健が周囲の目を気にしながら突っ立っている。
「ほら、リュックサックの女の子。あなた喫茶店で一緒に居たでしょ。知り合いなの?」
座ったままの俊夫は再び視線を落とした。
「ああ、でも、もう帰ってしまったよ」
「だったら伝えてほしいの。今日は本当にありがとう。あなたのお陰で目的が果たせたって」
俊夫は薄く笑みを浮かべる。
「いつになるかわからないけど、必ず伝える」
背筋をピンと伸ばしたマドンナは透き通った視線を遠くへ向け、穏やかな表情を見せる。
「あの子、ちょっと不思議な子ね。私、どこかで会ったことがあるのかしら。女の直感だけど、あの子とは、またどこかで会える気がするのよ」
そして、最後にこう付け加えて去っていった。
「痛かったでしょ、頭。ごめんなさい。悪かったわ」
お釣りとして受け取った小銭を握り締めたままだった。汗ばんだ手のひらを広げてその小銭を確認する。気のせいか一枚の50円硬貨に違和感を覚える。妙な輝きを発しているように見えた。
それ以外の小銭をポケットに突っ込み、どこか怪しげな50円硬貨を観察する。すぐにおかしな点に気付いた。『平成二十五年』という見慣れない文字が刻まれている。
最初は偽造硬貨かと勘ぐったが、偽造するならば、架空の元号を用いることなどしないだろう。わざわざこれは偽物ですと表示する馬鹿はいない。
だとしたら、これは一体何なのか。俊夫の推察は一足飛びに展開し、ひとつの結論に至った。
この50円硬貨は本物で『平成』というのは恐らく未来の元号だ。つまり、この50円硬貨は未来からやってきた。
タイムスリップしてきた真汐は、みたらし団子を買い求めた。その際に使用した現金が、この50円硬貨に違いない。
ドレミ亭の簡易レジに混ざりこんだ平成硬貨は、釣銭として運命的に俊夫の手に渡ってきた。
俊夫は、強く強くその50円硬貨を握り締めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「それがこいつさ」
赤紐で結われた50円硬貨を、トシ君は私の手のひらに乗っけた。
「そっか、私あのときはまだ自分が過去にタイムスリップしてきたなんて思ってなかった。だから、お金使っちゃったんだ」
自分の持つ凄まじい鈍感力に、我ながら呆れ返る。
「でもそれが、奇跡的に僕の手元にやってきた。説明の付かない出来事だよね」
手のひらの50円硬貨を、私はぽかんと口を開けて眺めている。
「それ以来、肌身離さずに携えていた。真汐さんが未来からやってきたという証だし、何より誰にも見せてはいけない物だからね」
トシ君は、二本目のハイライトに火を点けた。
「お守り代わりでもあったよ」
「お守り?これが?」
私は赤い紐を摘んで50円硬貨をぶらぶらさせながら訊いた。
「ああ、いつかまた真汐さんに会えるようにって願を掛けてね。こうして、ちゃんと叶えてくれたよ」
50年という年月を経て、再び私の手にある50円硬貨。そう考えると実に感慨深い。
そして、50年という時の変遷が引き起こした残酷さには、寂しい感情が私の胸に重くのしかかる。
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