【小説】駆けて!ホンマチ⑨
「あんまり幼いから最初は気付かなかったよ。君が真汐さんだって。俺の知ってる真汐さんはもっと大人でずっとグラマーだったから」
私の名前を呼んだ青年は、オールバックに撫で付けられた髪を摩りながら、小声でそう近付いてきた。
「ああ、初対面になるんだね。俺は日比野俊夫だ。トシって呼んでくれ」
爽やかな笑みを浮かべながらそう名乗った青年は、みたらし団子が焼きあがるのを待っていたときに、私からスマホを奪い取った四人組の一人だった。
そのグループでは一番若そうに見えたが他の三人とは違い、どこか優しげで聡明そうな印象を受けた。最終的に私にスマホを返してくれたのは、このトシという人だった。
「心配しなくていいよ。そのうちに元の世界に帰れる。それまでは、精々ここの世界を愉しむがいいさ」
この人は誰?どうして私のことを知っているのだろう?別の時代から来たことも見通しているかのような口ぶりだ。頭の中は混乱するばかりで警戒心も最高潮に達しているが、私は本能的に言い縋っていた。
「あの、教えてください!どうしたら帰れるんですか?私、帰らなきゃいけないんです!」
トシという青年は動揺している私をなだめるかのような優しい眼差しを向けた。そして私の隣に寄り添うようにして欄干に両肘をついて前屈みになった。
「方法はわからないけど安心していい。自分の意思とは関係なく、何かの拍子に帰ることができる。俺のときもそうだった。とにかくその節には本当にお世話になったよ。真汐さんと和歌子さんにね」
そう目を細めると私から視線を外し、真っ直ぐ正面を見据えた。そして奇妙な話をゆっくりと淀みなく語り始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1970年8月2日。
夏休みの内海海水浴場は多くの家族連れや若者たちの姿でごった返している。太陽の陽射しの眩しさは、あの日と同じだ。空の青さ、白波の立つ浜辺の風景も、あの時と何も変わっていない。
ちょうど一年前、百合子はこの海で亡くなった。俊夫の生まれて初めてのデートの最中だった。
百合子の命を奪った海など見たくはなかった。泳ぎの得意だった百合子が沈んだまま浮かび上がってこなかった海など、憎くて近付くことさえ出来なかった。
でも、自分の最後の場所もこの海にしようと俊夫は決心した。百合子と同じ死に場所。百合子と一年違いの命日。
意を決した俊夫は、ポケットに忍ばせていたウイスキーの小瓶を取り出した。
1969年、高校に入学したばかりの日比野俊夫は淡い片想いをした。通学に利用する地下鉄車内で毎朝見かける他校の同級生だった。
整った目鼻立ちは凛とした清楚な佇まいを持ち、背筋をピン伸ばした姿勢は、すらりと伸びた長い手足を一層引き立てていた。東宝の新人女優だと紹介されても通用しそうな容姿の持ち主だった。
俊夫は毎朝同じ車輌に乗り込んでくる彼女の姿を横目で見ながら過ごす、その僅かな時間に満たされていた。俊夫が通学車輌に揺られている間、彼女は途中で乗車し、そして途中で降車していく。時間にして10分に満たない、ささやかな幸福である。ごく稀に目が合う瞬間には心を踊らせた。
声を掛ける勇気などなかったし、そのつもりもなかった。憧れの存在だけで終わることの覚悟も出来ていた。
そのうちに彼女は姿を現さなくなった。利用する電車の時刻をずらしたのだろう。俊夫もいつしか彼女の存在を忘れつつあった。
衣替えの季節を迎えた頃、幸運のチャンスは突然巡ってきた。
朝の通学車輌の中、ある駅で多くの人たちが降車していった。ぎゅう詰めだった車内に少し余裕が生まれ、息苦しさの和らいだ俊夫が視線を下に向けると、床の上に革製の茶色い定期入れが落ちていた。
いつ誰が落とした物かはわからない。今降りていった人たちの物ではないかもしれないが、俊夫は反射的にそれを拾い上げ、自分も電車から急いで下りた。ホームに降り立った瞬間に車輌のドアが閉まった。
上質な手触りの革ケースに収められた定期券は『学』の判子が押された学生定期だった。署名欄には『白石百合子』と記載があった。
持ち主は男性の会社員であろうと想像していただけに意外だった。
改札口の手前で立ち止まり、学生鞄の中を落ち着きなく覗き込んでいる少女がいた。俊夫の目に、真っ白いセーラー服が眩しく映った。
それ以降、俊夫と百合子は何度か喫茶店で待ち合わせをした。
百合子は俊夫がイメージしていた物静かな少女ではなかった。明朗快活ではっきりとした口調で自分の意見を言う。裕福な家庭に生まれ育った百合子は、その仕草や言葉遣いの端々から上品さが溢れるが、そこにお嬢様特有の乙に澄ますような態度は一切感じさせなかった。屈託のない笑顔を見せる好奇心いっぱいの少女だった。
百合子の通う高校は県内でも有数の進学校で、所属するバレーボール部では入部して間もなく主力メンバーに抜擢されたという。「勉強よりも運動のほうが得意。運動はなんでも好き」と舌を出しながらはにかんでいた。
当然ながら俊夫はそんな百合子に惹かれていくが、百合子もまた俊夫に対して特別な感情を抱いていった。
俊夫が自動二輪の免許を取るつもりだと明かすと「えっ、オートバイ?素敵!ねえ、私を後ろに乗せて海に連れて行って。約束よ」と目を輝かせていた。
積極的なのは百合子のほうだった。
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