【小説】駆けて!ホンマチ⑲
2021年7月18日
JR関西線、蟹江駅のホームに降り立った私は、まるで一週間前にタイムスリップしたかのような錯覚を覚える。
改札を抜けて南口から駅を出る。閉口したくなるような強烈な日差しと蒸し暑さ、町の空気感も一週間前と変わらない。
でもこれはタイムスリップではない。お気に入りのリュックから取り出した愛機がそれを証明する。
ホワイトボディーのミラーレス一眼レフカメラを今日は忘れることなく携えてきた。まずはJR蟹江駅の真新しい駅舎を液晶画面に納める。おばあちゃんのために現在の本町通りを撮影しようという目的を、先週は果たすことができなかった。
一週間前と同じように蟹江町本町通りを目指して歩き始める。
それは同時に、もうひとつのもっと重要な目的を果たすためへの第一歩でもある。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
2021年7月11日。
不本意なタイミングで50年前から戻ってきてしまった私は、悔し涙に暮れていた。
目を覚ました小さな神社前から、呆然と歩いた近鉄蟹江駅までの道程の記憶がまるでない。
近鉄名古屋駅行きの普通列車の車内でも、ざわつく胸中が和らぐことはなく、頭の中は物凄い勢いで様々な光景が渦巻いていた。
50年前の活気溢れる蟹江町本町通り商店街。ドレミ亭のみたらしだんご。昇平橋の欄干。喫茶ソルティのミックスジュース。モテモテのおばあちゃん。大ピンチのおじいちゃん。そして、トシ君。
結末を見届けられなかったこと。お別れの挨拶ができなかったことに、深い罪悪感を覚えていた。
帰宅した私は、もはやお決まりとなった手洗いうがいの儀式をすっ飛ばして、仏間に上がり込んだ。遺影のおじいちゃんは、変わらぬ優しい顔で笑みを浮かべていた。
一気に脱力感に襲われ、溶けるようにして畳にへたり込んだ。溢れ出る涙を抑えることができなかった。
涙で滲むスマホのホーム画面から、アルバムのアイコンをタップする。
50年前の光景が保存されている。ひしめき合うように店舗が立ち並び、行き交う人々は誰もかも輝きに満ちている。華やかなファッションの若者たちや、元気に駆け回るちびっ子たち。大きな声で商品の宣伝をする電器屋さんの店主。みたらし団子を片手に自撮りした写真もある。
それらすべてを消去した。
私が見てきたものは、この心の中だけに留めておけばいい。誰にも話す必要はないし、写真という形で証拠を残しておくべきではない。そう判断した。
タイムスリップの経験自体を忘れ去ろうとも努めた。50年前の情報が私の記憶に刻まれていることを後ろめたく感じる。本来知り得るべき内容ではない光景を目にしてしまった罪深さに悩まされた。
結果的に過去と現在は正常に繋がった。私のタイムスリップは、おばあちゃんとおじいちゃんを引き合わせたという、重要な役割を果たしたかのように見える。
だが私がいなくても、あの二人は何らかの要因で運命的に出会いを遂げたと考えたい。
そう思うと、私の気持ちは幾分楽になる。
それでも、心の奥底に潜む強烈な未練に苦悩させられた。
あの場面の続き。クライマックスに立ち会えなかったこと。トシ君に、ありがとうを言えなかったこと。
その後味の悪さが、心残りのままで終わらないと気付いたとき。
全身に鳥肌がたち、再び涙が溢れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
愛機のミラーレスカメラと蟹江町本町通りを歩く私は、一週間前の光景を思い浮かべながら標的となる被写体を探し求めた。
現存する小さな神社に手を合わせてから、そこを基準とし、ドレミ亭やオデオン劇場、楽器店や喫茶ソルティの場所を割り出してみる。記憶を辿らせるものの、最終的にはヤマ勘で場所を選定してシャッターを押すことになる。
今と50年前の風景を重ね合わせて見ることの可能な私は、ささやかな特別感と優越感を得られる。
誰にも自慢できない点が惜しまれるが。
本町通りの南端まで歩いた。おばあちゃんのための写真撮影はここまでだ。カメラの電源を落とし、リュックにしまい込む。
ストラップから開放された首筋を、生温い風が撫でていく。マイボトルから口に含んだお茶は、爽やかな涼感を喉元に届けてくれる。
そこから今来た道を引き返すようにして、北に向けて歩き出す。人影のない静かな通りを、ゆっくりと歩く。
思えば先週はここを嫌というほど走った。私の身体能力の限界を超える過度な運動量に体中が悲鳴を上げていたが、必死に脚を動かし続けた。二日間、全身の筋肉痛に苦しめられた。
今日は走る必要などない。何故かほどけやすい右足の靴紐も、今はきっちりと形よく結われたままだ。
トシ君の実家は酒屋さんを営んでいた。その場所を教わったわけではないが、この本町商店街を何度も往復しているうちに、自然と目に入ってきた。『本町酒店』という立派な看板が掲げられた広い間口のお店だった。
今私は、その本町酒店が存在していた場所に立っている。かつての面影こそ残っていないが、明確にその名残が刻まれている。
ステンレス製の看板は、日の光を眩しく反射させて直視できない。少し角度を変え、改めて社名を確認する。『株式会社ヒビノ』とだけ、洒落た書体で印されてある。
胸の高鳴りを抑えられない私は、しばらくの間立ちすくんでいた。今日の一番の目的はここを訪れることだ。
私のタイムスリップのストーリーは、ここに来ることで完結する。欠落したままのシナリオの結末部分。知りたい欲求と、知ってしまうことの怖さが交錯するが、その真実のすべてがここにある。
吐き気がするほどの不安に押しつぶされそうになるが、私に絡みつくように宿る未練や後悔の念を取り払うことができるはずだ。
意を決し背筋を伸ばした私は、通りに面した駐車スペースを抜け、社屋へと向かった。