【小説】駆けて!ホンマチ⑧
夢を見ている。そう考えるのが一番現実的だろう。マスクを外した私は頬っぺたをつねり、痛みを感じないことに安堵感を覚えた。やった!よかった、これは夢なんだ!夢の中ならば安心できる。何も怖くない。しかし、ほっとしたのも束の間だった。念の為にと、もう少し力を加えてつねってみると、頬に激しい痛みが走った。
もはや周りを眺めることさえできず、ただ力なく歩くことしかできない私は、喧騒を避けるために細い脇道に入った。
民家の塀に囲まれた静かな路地は、本町商店街の賑やかさとは対照的なコントラストを描いている。人がすれ違うのだけの余裕しかない通路の真ん中に、堂々と昼寝をしている野良猫がいる。その横を起こさないようにと気遣いながら静かに通り過ぎると、唐突に急坂が訪れた。川沿いの堤防に突き当たったのだ。今度は堤防沿いを歩く。心持ちひんやりとする空気が頬を撫でる。
50年前の直射日光は、今よりもかなり優しく感じる。今朝、出掛けに見たテレビで、今日の予想最高気温は33度と言っていたが、とてもそこまでありそうもない。まさか、身をもって地球温暖化を体験できるとは想像していなかった。
このまま温暖化が進まず、こんなに過ごしやすい夏のままだったら違う世の中になっていたのだろうか。人類はもっと真剣に環境問題に取り組むべきだったのだと強く感じる。
神社の横を通る。私が強いめまいに襲われた場所の神社よりも規模が大きい。苦しいときの神頼みというが、今の私には、神様以外に頼れる存在もない。迷うことなく神殿の前に立ち、お賽銭用の硬貨を出そうと、財布に手を伸ばしたとき、はっと気付いた。
ここは昭和46年だ。私の財布の中にある、これよりも新しい硬貨を使うわけにはいかない。手持ちの硬貨全部を調べたが、昭和49年の5円玉が一番古い物だった。
本意ではないが、お賽銭なしで御参りをする。御利益が心配になるが、この状況を神様が理解してくれることを願うしかない。
神社の横に橋が架かっている。真新しいコンクリート製の欄干に『しょうへいばし』という銅製のプレートが嵌め込んである。昇平さんという人がこの橋を架けたのか、はたまたこの橋から落っこちたのか、その云われを知る術はないが、今をときめく大谷翔平君とは字が違うことが残念だ。『翔平橋』に改名すれば、50年後にはちょっとした観光スポットになっているかもしれない。
川幅は15メートルくらいだろうか。両岸の堤防のコンクリートは、まだ真新しく見える。橋の向こう側には銭湯があり、そびえる煙突が天を突いている。
私は橋の中央付近で太陽に背を向け、欄干に肘を乗せて腕組をする態勢で寄り掛かる。川の流れはほとんどないように見えるが、こうして川面を眺めていると少し落ち着く。
ふうっと大きく息を吐く。善後策を講じなければいけない。まず頭の中を整理しよう。
私は極めて困難な状況の中に置かれている。令和3年を生きていた私は、自らの意思とは関係なく50年前の昭和46年にタイムスリップしてきた。それも、全く土地勘のない愛知県海部郡蟹江町という場所にいる。
一番の問題は、ここから令和3年の世界に戻る術を知らないという点だ。戻る方法が分かるまで、私はこの昭和46年の世界での暮らしを強いられることになる。
ここで暮らすとなることで、諸問題が発生する。生活するにはお金が必要になる。今現在の所持金は数千円あるが、この時代に使用できる紙幣や硬貨を持ち合わせていない。これは大変な問題で、私なんか簡単に飢え死にしてしまうかもしれない。その場合、身元不明者として処理されるのだろう。この世界に私の戸籍はない。
そんな孤独な死を迎えないためにも、アルバイトをして収入を得なければいけなくなる。しかし身元を証明する生徒手帳も役に立たないとなると、まともなバイト先など見つからないのだろうか。
通う学校もここにはない。話せる友達もいない。帰る家もなければ、母の美味しい晩ご飯も食べられない。
どこで寝泊りをし、どうやって食事にありつけばいいのか。
私がこんな目に遭っていることなど、まだ誰も知らないでいるのだろう。夕方になっても帰らない私に母は何度も電話をかけるに違いない。一向に連絡の取れない私を心配する顔が思い浮かぶ。このまま私が戻らなければ捜索願いが出され、行方不明者として公開されるのだろうか。
学校のみんなも心配するだろうな。同じバスで通う絢奈も寂しがるだろうし、クラスメイトの亜美に借りている現代文のノートを返せないのは申し訳がない。
考えれば考えるほど、頭の中を絶望感に支配される。こんなに不安な気持ちになったのは、生まれて始めての経験だ。耐え難い孤独感だ。こんな難局を、どう乗り越えろというのか。
気がつくと、私の頬に幾筋の涙がつたっていた。
「真汐さん?」
誰かにそう声をかけられた気がした。空耳に違いないと決め付けていた。この時代に私を知る人物などいるはずがない。私の名前など呼ばれるはずがないのだと自分に言い聞かせているともう一度、今度はより大きく鮮明な声が聞こえてきた。
「真汐さん、だよね」
男の人の声だった。私は警戒しながら腫らしたまぶたのままで、その声の方向に振り向いた。
声の主は、意外な人物だった。