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【小説】駆けて!ホンマチ⑮

灰皿の上で燻っている吸殻から、一本の細い紫煙が立ち昇る。その行き先は気まぐれに方向を変えながら、路頭に迷うかのように頭上に消えていく。

 まるで、ちぐはぐな私たちの会話を象徴するかのようだ。

 気のせいか、天井からぶら下がる蝿たちの亡骸も、噛み合わない私たちのやり取りに呆れているように見える。


「それじゃあ、真汐さんは一体なんのために今日ここへ来たんだ・・」

 トシ君はじっと腕組をしながら途方に暮れている。

 今日ここへ私がタイムスリップしてきた理由。私には全く心当たりがない。


 トシ君は恋人を亡くしたことに対する絶望感から、生きる希望さえをも失っていた。自ら命を絶つ決断をし、それを実行しかけた矢先でのタイムスリップだった。

 タイムスリップ先でトシ君は、私と和歌子さんとに接触した。和歌子さんは亡くなった恋人、百合子さんの妹だ。和歌子さんの夢枕に現れた百合子さんは、トシ君の自殺を阻止するように訴えた。それを伝え聞いたトシ君は、生きる道を選んだ。

 まさに、人生の大きな岐路に立っていた場面でのタイムスリップだといえる。


 私たちに起こるタイムスリップは必然的であり、大きな窮地から逃れるために発生する。トシ君はそう力説する。


 しかしながら、令和3年を平々凡々と生きている私には、精神を蝕むような深刻な苦悩や、高くそびえる障壁に立ち向かうような苦難など、皆無といっていい。

 元来、困難との対峙を避けるようにして生きてきた私は、常に無難で平坦な道を選択してきた。『水は低きに流れ、人は易きに流れる』この孟子の言葉に、自分を肯定してくれるような安心感を見出した。以来、極めて志の低い私の人生訓となっている。

 昭和46年の世界に迷い込んでいる今こそが、これまでの人生の中で起こった最大の窮地だと思いたいが、トシ君はそれには納得してくれない。



「おっ、今日もマドンナのお出ましか」

 窓の外を眺めているトシ君の目線の方向を追いかけると、ひと際目を惹く女性が歩いていた。

 白地に黒の水玉模様が映えるノースリーブのワンピースは、縁取りの黒が全体をすっきりと引き締めている。太腿が露になるスカート丈から伸びている足元には白のローヒール。セミロングの髪は毛先にパーマがかけてあるのか、弾むようにくるんと外巻きに揺れている。

 その顔立ちは『美しい』という以外にどんな形容詞が当てはまるだろうか。大きな瞳は魅惑的に輝き、口角の上がった口元が表情を明るく見せる。派手さはなく、むしろ純朴そうだが、美しさが内面から溢れ出ているような印象だ。更にはスタイルも秀逸で、腕や脚は細いのに、胸は豊満だ。本来グラマーとは、こういう女性のスタイルのことを言うのだろう。

 他の女性たちもお洒落で可愛いが、この女性は女の私から見ても、嫌味がないし極めて魅力的に映る。それを証拠に早速男がすり寄ってきた。

 そのブルドックのような風貌には見覚えがある。ここにタイムスリップして早々に、私にからんできた不届き者だ。私からスマホを奪い取ったチリチリパーマで、トシ君も一緒につるんでいた男だ。

 水玉ワンピースの女性は笑顔のままブルドックと接するが、手玉に取るように軽くあしらっているのは一目瞭然だ。きっと男を扱い慣れているのだろう。

「彼女は毎週日曜日に現れる本町のマドンナさ」

 トシ君は新しい煙草に火を点けると、前屈みになって窓の外のマドンナの後ろ姿を目で追いながら話しはじめた。


「去年の秋くらいからだと思う。彼女がこうして毎週本町に遊びに来るようになったのは。いつしか『日曜のマドンナ』『本町のマドンナ』と呼ばれるようになり、男たちの視線を一身に集めるようになった。一見すると華やかさに満ち溢れているが、時折見せるどこか寂しげな瞳が男たちを虜にしていった。そのマドンナに求愛した男はもう10人以上だろう。玉石混交だが選び放題だ。だが、今のところ誰も色よい返事を貰っていない」

 私とは全く違う世界の話で、興味なさげにただ頷いていた。だからまさか話の続きを聞くにつれ、前のめりの姿勢で耳を傾けることになろうとは私自身、想像もしていなかった。


「実は、彼女が本町にやってくる目的は人探しらしい。それも男だ。なんでも高倉健ばりの色男で、右手の甲に大きな火傷の跡があるって話だ。詳しくは話そうとしないが、以前この本町で会ったことがあるらしい。つまり、惚れた男を捜してるってわけさ」


 先日亡くなったおじいちゃんの右手の甲には痣があった。私が幼少の頃に「火傷の跡だよ」と教えてくれたことを思い出した。

 おばあちゃんは若かりし頃、この蟹江町本町商店街に毎週日曜日、欠かさず通い詰めた。秋祭りで下駄の鼻緒が切れてしまって路頭に迷っていたところを、通りすがりの高倉健似の若きおじいちゃんに助けてもらい、そのお礼のために再会を果たそうと・・。


 なんということだろうか。あのマドンナの正体は誰あろう、おばあちゃんに他ならない。お洒落で、綺麗で、男にモテモテだったなんて想像できないが、確かに目元などに面影はある。

 驚愕の事実に口を半開きのままの私は、取りとめもなく視線を彷徨わせるばかりだった。


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