形式的コンテンツとみずからの「Wanna be」
わたしは、可愛い絵を書いて、チヤホヤされたい。そういう思いがあるのだということに、最近気づいた。
可愛い絵を書いて、クソほどチヤホヤされたいという思いがあるのなら、たとえば「絵画」の評価をしているような、絵画の上手い人などに師事すれば、構図力は向上するだろうし、カジュアルな画力も向上すると言えるだろう。また、例えば芸大を目指して絵の塾に通うとするのならば、その「形式」があることで、全力で生きている人が集まってきて、自らの力になるのは明らかだろう。
「形式」が先なのか、熱中している人が多いから「形式」が存在するかはわからないが。ただ、「形式」は、素晴らしく良い性質をもっていると、僕は思っている。
「形式」的であるものは、明確にノウハウが揃っているといえるだろう。例えば、「油絵」だとすると、そのジャンルに全力で取り組んでいる人が、おじいちゃんになって、指導者になっている。ということ。
例 絵画 漫画 アニメ アイドル ダンス K-pop 音楽 アイドル Vtuber 配信者 Youtuber そういったようなもののことを指す。
要するに、「形式」は、ジャンルのことを述べている。
ただ、ジャンルという言葉は、あんまり好きじゃない。なんか、区別する必要がないものを区別しているような気がするからだ。僕の述べる「形式」は、ある程度独立して評価できる、もしくは、それに向かって全力で努力している人が、見つけられるようなジャンル、のことを指している。
マスコットキャラクターを書く人
がおじいちゃんになって、お金のためになんとなく雇われている、みたいなことは、ありえない。
そういったような、それなりに高いスキルを持った人が、そんなに高いお金を払わなくても教えてくれる、そんなことは、「形式」がないとありえないのだ。
「絵画」とか、「音楽」とか。それを目指して生きている人がいる、「形式的コンテンツ」
ただ、誰もがその形式的コンテンツに命を捧げることはできない、そういったような、ある意味で狂信的な生き方ができるのは、一部の恵まれた人だけだ。
(わたしは、そういった様な人を最も恵まれていると思っている。ものすごく嫉妬している。)
でも、僕にはなんとなくだけど、「これをできたらうれしいこと」がある。でも、それは、マイナーだったり、その嬉しいことに対して、明確に、これをやったら良くなっていくという、「形式的コンテンツ」特有の素晴らしさが、ない。自ら切り開いていくしかないのだ。形式的コンテンツに狂信できなかった人間は。(もちろん、形式的コンテンツに夢中になれた人も、自分の人生は自ら切り開く必要がある。ただ、幸せになる道筋が示されていたりする。)(僕は、幸せになることがもっとも良いことだと思っている。これは、僕が今あまりにも幸せではないからなのかもしれない)
その際に、「自ら切り開く」というのが、どこまで一人の人間の力で可能なのか?という点なのである。たとえば、可愛いキャラクターを書く、というのは、形式化されきっていない。形式化されきっていないことは、何の「能力」が必要なのか、自分で考える必要がある。
その際に、「形式」を利用して、たとえば芸術大学への進学を目指せば、その「能力」は、自分ひとりで挙げられないところまで上げることができるように成るだろう。
(たとえば、立体的にものを捉えられるようになる、とか)
自分一人でできることは、とても少ない。全力で生きて、全力でその「形式」のことについて考えている、という人が近くにいると、なれる自分はどんどんと上がっていく。そうして、自己実現への道筋となっていくのではないか。
このように、私が天才マスコットキャラクターに成るためには、芸術大学受験予備校に通って、受験をするべきではないかと、いう非現実的妄想を、を気難しく述べてきたのが、この世界の捉え方は、こんな変なことではなくても、普遍的に応用できる、と考える。
そのためには、「どうやったら、自分が満足するだろうか」ということを精一杯に考えて、体験して、そうしてそれを見極めていかなきゃいけない。
たとえば、「人前に出て、私のことを笑ってほしい」と分析したのであれば、「お笑い」という形式や、「ダンス」などの形式で、自分の動きを磨くのも素晴らしい。「演劇」という形式で、自らの演技力や、表情管理能力を向上させることが「K-POP・ダンスコピーサークル」形式に入会して、それに熱中していて、そして本当にそれになりたいひとに混じって、表情管理などを学ぶのもいい。できるだろう。
そして、これらの能力を、「ひとり」で身につけるのは、実はすごく難しいように、僕の短い人生からそう考えられる(できるひとはそれですばらしいとおもうのだが)
だから、まずはしっかりと自らの欲望を、しっかりと整理して。
それを行うために、それを全力でやっている人がいる。ある意味「形式的」「形骸的」「定型的なコンテンツ」「センスが実在するコンテンツ」「長い間消費され続けてきたコンテンツ」「ある意味で古い様なコンテンツ」「流行っているコンテンツ」
のような、あるいみで少し嫌ってしまうような、自分は特別だから、と考えて避けてしまうようなコンテンツを向き合うのが、その「欲望」と判別するのが大事なのかもしれない。ただ、「欲望」は、やってみないとわからない部分がすごくある。ほんとうに自分が「うれしい」というふうに感じるのか?というのを、しっかりと確かめて、そして、その「うれしい」にどの様なステップで近づいていくのか。それが、ある意味での人生なような気がする。
嫉妬心と、自らの楽しさ。
煩悩と、欲望。
自分がやったら幸せになれるもの。お酒が美味しいもの。(ベテランち
そういったようなものは、自分の年齢になると、残念だけどもう結構決まってしまっていて、じゃあ、そこを理解して、どのようにして自分を伸ばしていくのかという、それはまた素晴らしいような期間でもあるのかもしれないとも思う。しっかりと今を大切にして、自分が、どんなことを思っているのか、確かめる機会をしっかりと作り出したいというふうに思っている。
あと、最後に自らに注意すべきは、形式でトップの人は、わかりやすく強いから、嫉妬しやすい。けど、ほんとうに嫉妬スべきは、自分の幸せを認識して、それに向かって努力しているひとだと僕は思う。いろんな生き方があっていいが、この考え方が僕の性にあっているということなのかもしれない。
(形式は、それが何なのか定まっている、美の基準が定まっている、成長の過程がある程度確立している、という意味から選択しました。ネガティブなニュアンスはありません。)
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