見出し画像

そうだ。もう一度、日光行こう。

 小学校の頃に修学旅行で訪れたのは日光だった。

 これだけで実は私のお住まいの地域がある程度特定できてしまうのであるが、時々そんな事さえ忘れて、どの小学校でも修学旅行は日光だと思い込む時、あの幼き日に訪れたやたら大袈裟な寺社仏閣の集まりは日光であり、その思い出は誰しも共通で持っているものだと誤解する。

 だから、今回は気を引き締めて、修学旅行で日光に行ったことがない人が大抵であると意識してこれから先を綴りたい。

 あっ、日光とはどういう場所なのか既にご存知の方は読み飛ばしてもらっていいですよ。いや、やっぱり読んでもらって間違いがないか見張っていて下さい。すぐ嘘をつくんでね。

 日光とは栃木県にある寺社の集まりで、古くから神仏習合の文化があった。

 始まりは男体山。この辺りで一際大きなこの山を中心に神社が開かれて信仰が深まり、山岳信仰の場として発展を遂げた。

日光を開いたという勝道上人。未整備の男体山への登山は難儀でした。

 潮目が変わったのは、徳川家康が江戸幕府を開いた頃。

 家康と仲の良かった天海という坊さんがいた。かなり重用されていた高僧で、大僧正まで上りつめている。面白いのは、この天海こそかの明智光秀と同一人物ではないかという説もある。詳しくは調べてみてね。あと、天海は日本で初めて一切経という経文を印刷して出版したという功績もある。木版印刷だ。現存しているらしい。

 ともかく、いよいよ家康がその生涯を終えようとした時、枕元にこの天海を呼んで自分の埋葬について詰めた話をする。これが結構細かいオーダーだった。遺体はどこどこに埋葬して、位牌はあそこに納めて、葬儀はまた別の場所でやって、それから一周忌が済んだら日光に分霊してねという具合にだ。何故そんなややこしいオーダーをしてきたのだろうか。自分の死後について考えるうちに「こういうのもいいな、ああいうのもいいな」と妄想が膨らんでしまったのか。死後にそこまで希望を持てるのは羨ましい。私の想像する死後は完全な無なので、別に孤独に死のうが宇宙に散骨してもらおうが、意識はきっと存在しないだろうから恐怖しかありません。ただし、葬式でGLAYを流してくれなかったら呪う。

 事細かにリクエストをした家康だったが、家来たちは忠実にそれを守った。死してなおも従ってくれる人がいるのは嬉しいね。

 で、まず家康の遺体を静岡の久能山という場所に埋葬する。

 その翌年に朝廷より神号が家康へと送られる運びとなった。

 神号だって?

 さて、どんなものが良いだろう?

 ここでも一悶着あったらしいけれど、最終的には天海の進言が受け入れられて「東照大権現」とされた。東照大権現=徳川家康。彼を神格化することで多くの民の心の拠り所になったらいいな。天海はそう思って、東照大権現を日光へと祀り「東照宮」が誕生したのですね。

他には「東照大明神」という候補があったらしいが、豊国大明神(秀吉)と被るので避けられた。

 要は家康のお墓です。日光東照宮は。

小学生の時の記憶が蘇るかと思ったが、何一つさっぱり出てこなかった。

 面白いのは徳川将軍家の歴代の将軍でここに祀られているのは、家康と三代将軍の家光だけなのだ。他の将軍は東京のお寺に眠っておられる。戦争でだいぶ焼けてしまったけれど。

 この家光という男、家康への畏敬の念がそれは強くて、この東照宮を豪華絢爛な造りにしたのも彼の業績だとされている。輪王寺という東照宮とは別の寺社が日光にはあって、そこの宝物庫の展示を見ると、家康の肖像画が何点も残っています。しかも衣装差分が豊富。

 これは家光が家康公の夢を見た時、絵師に頼んで、その姿を描いてもらっていたという代物だ。結構、ヴァリエーション豊かな姿で出て来たのだろう。それにしても、家光、家康が夢に出た時の寝起きはすごいテンションだったんだろう。絵の点数と出来栄えから、容易に想像できる。

 そんな家光は死後も家康の側にいたいということで、東照宮の近くに埋葬してもらった。ちなみに墓所は一般非公開。

こっちが家光公の墓所がある大猷院。祖父への大いなるリスペクト。

 東照宮の注目ポイントと言えば、眠り猫とか三猿とか鳴り龍とか陽明門とか、まあ、修学旅行に行く前に色々と教えられる。ネタバレをしてから行かせるのだ。で、実際に見て「あー、本で見たのと一緒だな」って思って帰る。私が小学校の時はそうだった。

 でも、こういうのって何の知識も無しにいきなり降り立って、「何だあれ」ってなって、その場で先生が「あーだこーだ」と説明してくれるのがきっと楽しい。先生は大変だろうけど。いや、小学生は「何だあれ」ってならないか。先生の話なんて聞かないか。歴史が楽しくなってくるのっておじさんおばさんになってからだからなあ。宿泊学習は難しいなあ。

 ただし、小学校の時分に一度訪ねたことは無駄ではなくて、歳を取った時の旅の動機になる。修学旅行で一度行ったけれど、あの時は何もかもが浅かったなあ。もう一回行って、何があったのか深く知りたいなあと。修学旅行客のリピーター。きっと日光を訪れた人々の中には何割かこんな人がいるはずだ。何割? いるのか?

 日光に再訪してみて思ったんですけれど、思っていたより東照宮とその周りと寺社って広い。思い出の中の日光ってもっとコンパクトだった気がする。それは恐らく東照宮周りのみをぱぱっと周ったからだろう。

 家康すなわち東照大権現を祀った「東照宮」。その他にも日光には寺社がある。代表的なものを集めて、こう呼ぶのだそうだ。

 二社一寺。日光の二社一寺。

 全部細かく見て回ると半日じゃ済まない。私は半日しかいられなかったので、一社一寺しか見られなかった。悔しい。

 一社はこれまで書いてきた「東照宮」。

 そして一寺の方は「輪王寺」だ。

輪王寺をまともに巡ると一日はかかってしまう。ディズニーランド級だ。

 輪王寺は数々のお堂と門と塔が揃った大規模な寺院だ。本堂には三体の仏像が鎮座している。千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音。中に入ると巨大なこの仏像の付近まで歩いて接近できる。この三体の仏は日光の山の神が姿を変えたものとされている。山岳信仰と仏教。神仏習合の文化がここにも見受けられる。

 宗教施設の歴史としてはこの輪王寺が古く、由緒がある。ただ何度か自然災害で崩壊し、江戸時代に建て直されてはいる。それでも日光を知る上でこの輪王寺は重要スポットだ。

 これまで神仏習合と言うと、明治時代になってからの宗教や風習の整備として行われてきたものという誤解があった。

 今回の旅で得た知識は、山岳信仰と仏教の関係性だ。神道と仏教。この二つをより親しみやすくするために二つの宗教は歩み寄ったのだと思う。そういう柔軟性が私は好きだ。

 思い出の場所を巡るために訪れた日光だったが、完全に舐めていた。

 歩くこと歩くこと。石段と砂利道のハイキングだ。

 そして、いちいち足を止めていたのでは時間が完全に足らない。

 そのお陰で最後の二荒山神社は見られなかった。

 ちょっとだけ入り口まで行ったのだけれど、何だかすごく面白そうなものが眠っていそうな気配がする。オープニングからして面白いもの。

「二荒山神社の『二荒(ふたあら)』を読み代えて『にこう』。これが『日光(にっこう)』の語源であるとされている」

ここでのイベントCG回収に失敗しました。

 …………。

 何だそれ! 面白そうじゃん!

 だが、無情にも時間が足らない。仕方がない。この旅の続きはまた宿題として積み残しておこう。こうしてまた日光を訪れる理由が出来た。

 正確に言うと、何年か何十年後に再び訪れる旅が、今度の旅の純粋な続きであるはずはない。また新たな旅となって、全く違う世界として、私の目の前に景色は現れるだろうからだ。その時はどんな風に目に映るものを解釈するのだろうか。石段がきついからなるべく足腰が丈夫なうちに来よう。

 そうだ。もう一度、日光行こう。

いいなと思ったら応援しよう!