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『リタイア』と『現役』の間にある名前のない時期 1


名前がないから、自覚されない

 シニアとか高齢者というと、多くが65歳以上を指す。
労働人口は15歳から65歳未満だから‘’お役御免‘’の意味もあるのか。
企業に課せられた従業員の延長雇用努力も65歳。(じき70歳になる)
60歳定年という規則は賞味期限が既に切れかかっていて、なんとも中途半端で、企業の人件費増加の心配のゆえんが明らか。
そして70歳男性の就労者は40%を超えている。
就労の理由のトップが『生活費補充のため』、いうのは少々寂しいが、
その生活水準はまちまちだから、侘しいわけではないだろう。
それなりの幸せの水準というのはある。

 平均寿命は男性で81歳を超えたから、実際は90歳前後というのが一生の期間なのだろう。最後の7-8年が、健康寿命の途絶えた?時、と考えれば、定年から20年以上は、元気に活動できる時間がある計算になる。

 定年からの20年。
 10年ひと昔流にいえば、ふた昔。二つの時代のカタマリが残っているということだ。
 心身ともに、だいぶしおれてしまっているので20歳代、30歳代の20年とはいかないまでも、50歳代、60歳代の20年がもう一回分残っていると想像すると、これは大変なことだ。
 しかもここでは、ローンや教育費などの重くのしかかっていたものが消えている。多少は体力・気力・能力もすり切れてはいるが、気分だけはまだ若いし軽やかでさえある。

 それなのに、この期間のネーミングがまだ確立していない。
名前がないから、『失われた10年』のように、総括もできないし、あたかも存在すらしなかった空虚な時代のようにしか記憶に残らない。
 だから自分なりに名前を付けて、具体的な時代として存在させておくことは重要だ。

インドでは人生を四つに分けて、それぞれ定義している。
だいたい、以下のような分け方だ。
学生期:学びの時期
家住期:働き、結婚して一家をなし、子供の養育に当たる時期
林住期:家住期の制約、ミッションから離れ、自分の生き方を考える時期
遊行期:自然に還り、自由気ままに過ごし死に向かう時期

 こう見てみると、学び期、労働期、引退期の三つに分ける洋式?より、はるかに哲学的で、うなづけることが多い。
 家住期からそのまま遊行期への移行は、定年という社会が仮に決めた制度が、まるで魔力を持っているかのように、社会からの退出を促し、個人の世界に入り込んでドアを閉めようとする、これまでの高齢者の姿を想起させる。それがオーバーなら、社会生活のつながりの世界から、近所の町内会レベルの世界に飛び込むとでもいおうか?
 その世界への移行の時期にこそ、今までの経験やネットワークを駆使して、自分なりの価値を感じる活動プランを考え、それを発揮できる世界を探すなり作るなりする時期だと思うのだが。
 林住期という名称は、ソローの『森の生活』や、中国の『竹林の七賢人』にもつながる。人の世界から自然の中への回帰。社会というものは人が寄せ集まった複雑な人格を持った生き物で、その中を生き抜くにはそこで通用するスキルが必要だった。それでも、いくつかの経済理論を見てもわかるように、人間の感情と密接に結びついている。
 一方でテクノロジーは、人の感覚や能力の拡大版ともいうべきものでより早くより多くの情報を、漏れなく計算し、描き出し、答え?を出す。しかしそこには、驚きをもったアイデアやクリエイティブを創出することは難しい。そして、そうした時代に生きた人間が、自然の中に戻り、もう一度、自分・人間を見つめなおす。その作業は、社会の未完の不確実な社会制度や規範を洗い流す作業から始まるだろう。そして、本当の自分の姿、考えを見定める。

 この家住期と林住期はかなり重なっている。もちろん林住期と遊行期も同じように重なっている。きれいなグラデーションではなく人それぞれのまだら模様を描きながら移行していく。
このまだら模様こそ、計画立てて、自分が納得で切るような図柄を描くことが可能なのだ。

 この時期を、それまで拡大増幅してきた人生のまとめの時期という意味で、総括の時期=サマリータイムと位置付けてみる。
総括とは英語ではサマリー/sammaryになる。
ちょっと語感が軽いが、概要とか、出来事すべてをサラッと見直すという意味では合っているような気がする。

新しさを取り込むのではなく、いままでの経験を整える

 肝心なのは、欲張って新しい物事を盛り込み、それに集中することでノイズを起こさないことだ。
 新しいことを経験し、吟味するのは構わないが、それは限られた知識や思考が固まってしまうのを防ぎ、汚れや灰汁を洗い流すためで、ここからまた新しい何かを創り出そうというものではない。
 新しいことを創り出すには遅いというのではなく、そういう時期ではないということなのだ。結果的に新しいものが生まれる可能性は十分にある。

 足すのではなく、吟味する。それぞれの経験、エピソードをなぞってみて、そのカタチ、肌触りなどを確かめてみる。
 当時はごつごつしていたものも、角が取れているかもしれないし、
鮮やかな輝きを放っていたものも、深く沈んで落ち着いた色になっているかもしれない。
 人生のさまざまな経験、エピソード、出会い、成功、挫折、といったものは、その時だけのものだから、数十年を経ると、初めて見たような感動を覚える。
 そうなのだ。
 かつての自分の経験を、この新しい時代に手繰り寄せてみれば、異なった角度から見る初めての経験になる。
 確かに自分の経験なのだが、初めて発見したような感動。それをサマリーの時期の最初にしてみるのだ。そこから、トランジションの『終わり』が始まる。この時期、〝趣味の新人〟として、おぼつかない足取りで歩みだすことが、自分がやるべきことなのか?これは熟考に値する。

 

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