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リアル リタイア・ライフ 3

『定年』は、疑似トランジション?

 『リタイア』が組織(企業)からの離脱、独立ということであれば、その切り替えポイントは、『定年』になる。
 そのあとに再雇用といったしっぽのような、盲腸のようなわずかの期間が続くにしても、それは実質的に同じだ。

 組織人・企業人と個人。
 現役と退役。
 第一線と後援・・・。

 いろいろ呼び方があるだろうが、『まずはお疲れさま』という、所属していた企業の約束期限を通り抜けることになる。

 自分というビジネスマンが、昨日と今日とでそれほど大きく変わるわけもないのだが、思っている以上に、『定年』を機に立ち位置が変わる。同時に関連していた人や組織との関係もガラッと変わったり、つながりが細くなったり消えたりする。時には気まずい変な結びつきが残ったりもする。
 理屈ではそんなことはわかっている。
 何人もの先輩たちの後姿を見送り、毎年の年賀状がとぎれとぎれになり、時々、訃報にまぎれて消息が届いたりするだけで、自分の行く末のイメージはできるものだ。

 しかしこれは、自然に自分の内側・外側から自然に生じた現役時代からの離脱ではない。
 『定年』という、昔ながら(本当はそれほど旧くはなく、明治の後期にできたらしいが)の制度に向けて数十年働いてきて、そのゴールのテープを切る順番が来ただけのことである。
 それも高寿命化につれて、50歳から55歳へ、そして現在は60歳定年と少しずつその期限は伸びてきた。もちろん、人手不足という産業界の切実な問題への対処の一つなことはわかっているし、それが適正なスピードで導入されているわけではないことも分かっている。

 

そこに、人の意識、体力・気力との齟齬が生まれている。


 トランジションという移行を表す言葉がある。
物事が切り替わるときに、まず『終わり』が始まり、試行錯誤の移行期間があり、そして新しい『はじまり』が始まる、という考え方だ。
 大切なのは、すべての物事は『終わり』から始まるということだ。いままでの考え方、やり方が通用しなくなって来たことを感じ、受け入れ、理解して次のステップへの助走を始めるということだ。
 これに当てはめて考えると、『定年』は、自覚のないトランジションである。知らなかったわけでも、わからないわけもはないが、それは以前から決まっていたルールを知っていたにすぎず、それまでのやり方が無力化する、といった真の実感はない。
わかっているのは、組織人としてのポジション、ミッションが無くなり、それに費やしていた時間が無くなり、それに引き込まれていた同僚との付き合いや情報収集といったものも意味をなさなくなるということだ。
 それらは定年にすこし遅れて、会社に行かない平日の時間にどんよりと立ち込めてくる。『そうか、この用事もなくなった。この雑誌の定期購読も不要になった』という具合である。

 ここに誤解のもとがある。

『定年』は組織人からのリタイアだが、人生のリタイアなどではない。
これはすごく大きな勘違いだ。 
 単に社会形式のものであり、それから少なくとも数年。人によっては10年以上経過しなければ人生のリタイア時期には至らないということなのだ。
 図に書いてみるとわかる。
 定年=リタイアと置いてしまうと、体がいうことを効かなくなる本当のリタイアまで、恐ろしく長い時間が伸びていることに気づく。実はその時間はプレ・リタイア時期であり、いままでの働き方を自分の体力に合った時間、働き方に変え、そこで得た代償=給与を元手に、今までやり残してしまったことをやる費用に充て、自分がやりたかったことの集大成をする時間なのだ。
 したがって『定年』の時にやるべきことは、自分のライフロールの断面を観察し、十分に担えなかったことを探し、それに決着をつけるべく、計画を立て、戦略を練るのだ。
 何度もいうのだが、そこで十分に考えずに、仕事時間が抜けた『大きな穴』に、趣味・道楽といったものを埋め込んでしまうことほど、愚かなことはない。
 なぜなら、それは本当にやりたかったこと、やり残したものを、そのまま放棄することであり、自分が一生懸命に生きてきた集大成をほっぽり出して、人生の結末を迎えることだからである。
 
 この問題は、だれがどう考えても自由で、いい悪いもない。
しかしもっとも重要なチャンスの時期に、きちんとトランジションを経ず、自分の人生を終えるのは、少しだらしなくはないだろうか?
自分の夢や希望をもう一度見直して、生きがいのあるプレ・リタイア時期を生き抜くことを考えるべきだ。

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