高齢者は、みずから破産する


人のネットワーク、人的資源、人脈。
現役時代は公私ともに頼りになる財産だった。
仕事で困れば相談相手になり、落ち込んだ時には愚痴を聞いてもらい、わからないことがあればそれをたどって、その先にいる未知の人につないでもらったりした。
毎晩のように酒を飲みながら上司や会社の悪口を言ったり、まっさらな自分の意見や思いを聞いてもらったりした。
自然、そのネットワークは拡大しその大きさこそが、社会人としての強みになっていった。

年を取れば、学生時代、仕事関係・取引関係、麻雀やカラオケの仲間といった組織とはちょっと外れたところにも、交友関係が広がった。毎年の年賀状の枚数が100枚を優に超え、それが律義さの証明にもなった。

定年を迎えるより数年前から、その財産は縮小を始める。
役職定年もあり、仕事イコールお客さんや、ブレーンを引き継ぎ始める。そのネットワークに流せる自分の仕事が少なくなるのは、肩の荷を下ろすような安ど感と寂しさをもたらした。仕事関係が縮小し、遊び仲間が縮小して行くのはある程度しょうがない。多分それらは仕事と関係していたものだからだ。だから本当に気の合う、屈託のない遊び友達というのはそのあとも残っていく。
しかし、それも嘱託やアルバイトをして、毎日とは言わないまでも外に出かけ、小遣いに毛が生えたくらいの、自分の自由になる収入があるまでのことだ。

それらが途切れると、急激に外出が減る。教養(今日、用)教育(今日、行く)が欠けてくると、カバンがなくなり、服装・理髪などにも無頓着になり、口の悪い仲間が言っていたが、格子柄のシャツにジーンズ、スニーカー、リュック。頭髪が薄くなるにつれ今まで持つことがなかった帽子という、高齢者の制服になっていく。
しばらくは、銀座や霞が関のようなオフィス街にもその格好で出向いていたが、ささやかな用事が潮をひくように消え、さすがに場違いを感じるようになり行動範囲が狭まっていく。

同時に、今まで毎晩居酒屋でつるんでいた仲間との会合も少なくなってくる。
話題がなくなる。各家庭の経済格差も明確になってくる。健康・体力もそうだし、趣味の有無、種類によっても、共通項を見失ってくる。
とにかく、大半の共通項であった仕事と会社がなくなったのだから、空身の高齢者同士が結びつくものなど、所詮、仕事、会社、不満くらいしかなかったことに気づく。

それだけではない、義理も金で変わってくる。
年を取れば、事故、病気で亡くなる知人も増加してくる。
会社を辞めたばかりの時は律義に通夜に行ったり、香典を送ったりしたが、それも時間が悔過するにつれ、少ない小遣いの使い方を考えざるを得なくなる。
今までの財産ではなく、これからの付き合いに、金の流れが変わってくるのだ。過去の付き合いは、再生も復活もないし、それらよりはるかにこれからのほうが大事だ。それに何といっても付き合いの少ない小さな世間だからわずかの金で済む。
これまでのつながりの義理を切り捨てながら、最後の新しい仲間づくりに投資する。
自然だ。

しかし、こうも言える。
リタイアは、だれかに押し付けられたわけではなく、自分で選択したものだ。
自由になる金がないのもそのためだ。
義理を欠く生活を送るのも、自分が決めたことだ。
そうやって世間を小さくし、義理を欠いて人生のフィニッシュに向かう。
一つの覚悟ともいえるし、寂しいということもできる。

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