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ずっと痛い矢疵 【短編小説】


キューはどんな名前で呼んでもこちらへやってくる。普通に「キューちゃん」。やってくる。「クーちゃん」。トコトコやってくる。「クマちゃん」。これでもやってくる。「クルマちゃん」。なぜかやってくる。「クルマ」! やってくる。いやあんたイヌでしょう。「雑種」! 大雑把なくくりで呼んでも、やっぱりやってくる。尻尾を振って、なんなら嬉しそうにやってくる。

「HACHI」

リチャードギアが秋田犬をそう呼ぶ、ハチ公物語のリメイクを観た。ワンちゃんをお迎えすることがあったら、名前は絶対ハチにしよう。あのときはそんなことを思ったものだった。だけどキューはキューになった。まあ、ハチと呼んでもキューはこちらへやってくるのだけれど。





「ソウヘイ」

「ナナ」

わたしたち夫婦はそう呼び合う。でも出会ったときはお互い、苗字に「さん」付けだった。そしてそれはたいがい敵意のこもった呼び方だった。

「時田さんよりわたしの方が」

「飯島さんよりぼくの方が」

保護犬の譲渡センターで、一匹の雑種犬の引き取り手として二人が強く名乗りをあげ、互いに譲らなかったのだ。

それがどうしてこうなったのか。わたしたちは一緒になった。

式も挙げない、子供もいない、そのことで親や友人からなんと言われようと、わたしたち二人と一匹は一つの幸せなカタマリになった。動物病院で「時田さん」、と呼び出しがあれば、三つの顔が同時にそちらを向くのだ。今思うと、あんなに幸せなことはない。

「キュー」、と呼ぶ。キューがやってくる。わたしがソウヘイの名前を呼ぶ。なぜかキューもやってくる。ソウヘイがわたしの名前を呼ぶ。なぜかキューも一緒についてくる。それが可笑しくて、わたしたちは意味もなく何度も名前を呼びあった。





花瓶。ハム。カバディ。ジーザス・クライスト。どんな単語ならキューは反応しないのか、わたしたちはいろいろと実験してみた。

まぬけ。トロ助。おバカ。あほう。ろくでなし。酔っ払って口が悪くなったときは、ふざけてひどい呼び方もした。それでも嬉しそうにこちらへやってくるキューに申し訳なくなって、取り繕うように今度は反対のことばで呼んでみる。名犬! スマート! 天才くん! お利口ちゃん! あれ、ろくでなしの反対はなんだろう。ろくでなし、でないのだから「ろく」? 「碌」の意味を調べてみると、くだらない小石のことらしい。あはは、結局けなしてる。けなすことばに比べると褒めることばって少ないね。わたしたちはケラケラと笑った。

「おれ、自分がこいつを引き取ったら「ロック」って名前にしようと思ってたんだ」

そしてあのとき、ソウヘイはそう打ち明けた。ドウェイン・ジョンソンのファンだから。音楽の趣味でいったら、ロックに傾倒しているから。もっともらしい理由を続けたあと、あとは「六」という数が好きだから、と少し恥ずかしそうに付け足した。

「六って、あこがれの数なんだ。ちょっとガキっぽいけど、なんていうか、超越した数字だから。人って、基本的には五体と五感しかもってないだろ。指だって片方に五本だし。五と六のあいだって、人にとって行き止まりみたいに高い壁なんだ。五臓六腑くらいだ、六つ目をもってるのは。小さいツ? それはご愛嬌」

たしかに、ROCKなら少なくとも小石よりかは大きいね! そんな適当なことを言ってまた笑いあう。キューにとっては六だろうが、五だろうが呼ばれれば同じことで、尻尾を振って反応してみせることに変わりはない。実際「GO」のコマンドも、「HIGH FIVE」も、キューの耳には呼び名に聞こえてしまっているようだった。

おまえはなんでもいいのか。せっかく考えに考えて、ほかの案を切り捨ててまでキューと名づけてやったのに、これではその甲斐もない。

「キュー」

そう呼べば、顔をこすりつけて甘えてくる。キューは九じゃない。もちろんキューにとっては、そんなことどうでもよかったんだろう。





日は太陽、月は月。それはわかるけど、年というのはなんなのだろう。とにかく幾度となく太陽は昇って落ち、月は満ち欠けて、なにか分からない年とやらが滔々とめぐっていった。

ソウヘイがわたしの名前を呼ばなくなった。わたしたちはキューのことをキューと呼ばなくなった。

なにがきっかけだったのかはよく思い出せない。わたしはお酒をやめられなくなった。

わたしたちは一緒に暮らせなくなった。





話し合いの末、ソウヘイの方がよそへ越すことになり、キューはソウヘイのところへ行くことに決まった。泥酔したわたしは、わたし自身にはその記憶がないが、なにをしでかすか分かったもんじゃないらしい。それを言われてはなにも言い返せなかった。

引越しの荷造りはわたしも手伝った。パソコン。マグカップ。シザースタンド。一つ一つ段ボールに入れながら、涙が出てきてしまう。ヘッドホン。ステレオコンポ。サブウーハー。あはは、こんなものまで。思えば色んなことばでキューを呼んだものだ。手放すのがこんなに辛くなるなら、あんなことしなければよかったな。写真立てから写真を抜き出すみたいに、全部のものから思い出だけを取り外すことができればいいのに。ときどきそんなことを考えて手がとまる。涙はとまらない。

ふたを閉じればなにも見えなくなる。封をすれば、もう二度と手に取れなくなる。これがお別れ、ってことなのか。ソウヘイの家財は予想していたよりも量が少なく、段ボールもガムテープも数が余った。業者を使うまでもない、といってソウヘイは、自分のベンツ・GLBでそれらを新居までピストン輸送することにした。いよいよ最後の一箱が運ばれる、その瞬間までは、わたしはキューと一緒にいられる。その最後の瞬間までは、わたしは時田の名前でいられる。キューはアゴを床につけたまま、蕩けたような目でこちらを見ている。ごめんね、キューには何事か分からないよね。そう声をかけた、そのときだった。

それに対する準備などだれもしていなかった。





なんと呼ばれたのか知らないが、あの夜、キューは神さまのところへ行ってしまいかけた。

キュー? 大丈夫? 呼びかけても反応がない。見ると、口の端から泡が出てきている。もう何箱か荷物を積んで出発していたソウヘイを、電話で呼び戻してすぐ動物病院へ向かった。「落ち着いて聞いてくださいね」。お医者さんは、わたしの動揺を見透かしてそう念を押した。「ここです」。心臓に癌ができていた。

もしかするとわたしたちは、自分たちのことで精一杯で、気づいてあげられなかった兆候があったのかもしれない。

「ワンちゃんにとっては、今大きく環境を変えることはストレスになってよくないでしょう」

お医者さんからはそう言われた。命とは、なんて残酷で意地悪な仕組みをしているのだろう。

わたしたちはもう一度、残酷で意地悪な期限つきで、しばらく一緒に暮らしてみることになった。





わたしは以来、すっぱりお酒を断った。キューにもしものことがあったとき、車を運転できないと困るからだ。ソウヘイがいつでも家にいて、毎回必ず対処できるとは限らない。

キューはまた少し元気を取り戻した。一緒に歩く見慣れた散歩道が、やけに新鮮に映る。いつもの交差点、いつもの坂道、いつものカーブミラー、いつも置いてある黄色い原付バイク。これまで通りの「いつも」が戻ってくると思っていたけど、実際はそうではなかった。いつも通りに見えるけど、すべてがいつ、「今のが最後」になるか分からない。そう思うと、ありふれた景色や時間やことばが、ぜんぶ愛しくてたまらないようもののように感じられた。

シメイ。ジューショ。ホンセキ。空欄を埋めながら、ソウヘイはキューを呼ぶような調子で、いちいちそれらを口にした。トドケデニン。ショーニン。わたしも面白がって、キューをそう呼んでみる。あいかわらずなんと呼んでもキューは反応してくれる。

「じゃあショーニンさん。ここに肉球で印をおしてください」

わたしたちは、いつかみたいにまた笑いあった。キューはやっぱりキューだ。キューがいるから、わたしと草平は笑顔でつながっていられる。

「あ。ねえ、指輪かして」

わたしはふいに思いついて、最後だから、と言ってソウヘイにある提案をもちかけた。



ユーアーマイサンシャイン。マイオンリーサンシャイン。ユーメイクミーハッピー。なんとかかんとかー。続きはなんだっけ。あとはメロディしかわからない。ともかく、新郎の入場曲のつもりだ。

「リングボーイ」

ソウヘイが呼ぶほうへ、かごをくわえたキューがトコトコ歩いていく。かごには指輪を二つ入れてある。花びら、もとい丸めたティッシュは新婦が自分でまく。今だけこの家はチャペルに、フローリングの床はバージンロードになる。

キューから指輪を受け取って、ふたりでお互いの薬指にそれを通しあった。本当はひそかにこういうのに憧れていた。ソウヘイがいやと言わなくて本当によかった。

キューは不思議そうにわたしたちを眺めている。いや、もしかしたらキューは全部分かっているのかもしれない。複雑に考えすぎ、余計なことを想像しすぎ、恐れなくていいことを恐れてばかりいるのはいつだってわたしたちのほうだ。

「ユーアーマイサンシャイン」

ソウヘイがキューのあごを撫でながらそう口ずさんだ。まったくその通りだ。キューが与えてくれる光がなくなったとき、わたしたちはまともに生きていけるのだろうか。

太陽。それもいい名前だ。タイヨウ、タイヨウ、そう呼ぶと、キューはやっぱり自分のことだとすぐに分かって、嬉しそうに尻尾を振ってみせるのだった。





協会三五八二号は、臆病な犬だった。なかなか人に慣れず、唸る、噛みつく、せわしなく辺りを見回す、などと秋田犬らしからぬ気性を三つも四つも兼ねそなえていた。通称は二号。保存協会の籍番号の末尾からとられ、そんなふうに呼ばれていたらしい。

二号はしかし、かたちは大変すぐれていたという。真っすぐな鼻梁。ゆるやかな三角形の目と耳。広い額と、平らな頭。太い首から、力強く巻いた尻尾のつけ根にかけて、一直線にのびる背筋。前足も後足も長く太い。白い体毛に赤みがかった鼻、という配色も珍しく美しい。惜しい犬だ、とは犬舎のだれもが評価するところだったそうだ。

毎回の品評会で二号は、外貌以外の審査項目で大きく評価を下げた。まず基本の立ち込み姿勢すら維持できない。悪いと審査員に、牙を剥き出して吠えたりもする。トレーナーによる訓練も甲斐なくその生来の気難しさは改善されず、二号はやがて出陳を控えられるようになった。犬舎で持て余され、じゃあ、と飼育員の一人が自宅に引き取ることを申し出た。二号はこうして佐藤家の飼い犬になったのだという。

「写真を持ってきました」

青年はシンジと名乗った。キューに会ってみたい。譲渡センターを通して、シンジくんはわたしたちにそう連絡してきた。

「カメラが嫌いみたいで。こんな写真しかなくてすみません」

彼が見せてくれた写真には、カメラマンのほうを鋭い目で睨む「二号」が写されていた。こちらへ差し出されたシンジくんの手には、中指と薬指がない。

「まだ幼かったぼくに怪我をさせたので、二号は保健所へ預けられてしまったんです」

二号はその後、居どころを転々と移していくことになる。

次の引き取り手となった福島県伊達市の浅野家では、先住猫との折り合いがどうしてもつかず、一年と経たないうちに飼育を諦められた。郡山市の獣医のもとに一時的に預けられたあと、今度は埼玉県さいたま市の真下コウイチロウ氏へ譲られ、同氏はすぐに二号を商品として売りに出した。九十万円の高値でこれを買い取ったのが、千葉県千葉市の樋口ヨウスケ氏だった。

「それで真下さんから住所を聞いて、樋口さんのところを訪ねたんです。着いてみればそこは、雑草ものび放題、土埃も積もり放題で、犬はおろか、とても人が住んでいる気配なんか感じられない。門扉の横、表札がはめ込んであったであろう窪みのとなりに、インターホンがあったのでいちおう押してみました。予想はしていましたが、やっぱりなんの反応もありませんでした。

住所を間違えたかとも思いました。でも、つま先立ちをして塀ごしに庭をのぞくと、犬小屋が置かれていたんです。たぶん手作りの、大型犬の入るサイズのやつが、三つ。ぼくはなんとなく、ああこれでやっとゴールに辿り着けるかもしれない、そんなことを思いました。

ここに住んでいたのは樋口さんで間違いありませんか、って隣の家の人にそう尋ねました。そしたら、樋口さんはもう亡くなってずいぶん経ちます、孤独死だったそうです、と。それでぼくはお墓の場所と、二号は、一緒に暮らしていた秋田犬はどうしたのかを訊いたんです。すると、郊外にある一つの霊園の名前をあげられて。どちらも今は一緒のお墓に入られているそうですよ、そう教えてくださいました」

犬も人間と同じお墓に入れるなんて、わたしは初めて知った。

「二号は、樋口さんからはハヤテと呼ばれていたようです。ハヤテは樋口さんのご遺体を守るみたいに、その横で身体を丸めて冷たくなっていたとか。不思議ですよね。まるでガラじゃない。あの二号が、一体どうしてしまったんですかね。

樋口さんはどうして、二号に九十万円もの大金を払えたんでしょうか。樋口さんはどうして、指を噛みちぎられないで済んだんでしょうか。ぼくは彼らの墓前で、たまらず問いかけてしまいました。返答の代わりに、エゾアジサイの青い花びらが風に揺れました。

白颯俊二居士。ハヤテの戒名だそうです。うちで二号と呼ばれ、浅野家でドーナツと呼ばれ、樋口さんからハヤテと呼ばれたのち、最後にやっと、もう変わることのない名前をつけてもらえたんです」

シンジくんはそこで、写真とキューを見比べるように交互に視線を送った。

「すみません、長くなってしまいました。今日ぼくがこちらへお邪魔したのは、二号のこどもを一目見てみたいと思ったからなんです。はは、やっぱり少しおもかげがありますね」

二号は樋口氏の家で、黒いレトリバーとのあいだに子犬を授かっていた。樋口さんはその子犬を、イチと呼んでいたらしい。

「母犬の名前はヨシノです。ヨシノとイチは、それから保護施設へ移されました。ヨシノは高齢だったので、そのあとまもなく亡くなったそうです。

イチは、今こうして時田さんのところで、キューになったんですね。二号のおもかげをのこす、たった一つの忘れ形見です。いや、見れば見るほど二号によく似ている」

シンジくんは、「撫でても大丈夫ですか」と一言ことわってから、恐る恐るキューの首のあたりに手を伸ばした。親指と人差し指と小指の先が、わずかに震えている。ついにその指が触れる。てのひらが触れる。キューも少し緊張している。毛並みにそって、シンジくんの手が優しく動かされる。

「犬って、初めて触りました。二号はまさか触れなかったし、あれ以来、犬が苦手になっちゃったので」

シンジくんもキューも、しだいにこわばりがほどけていくのが見ていてわかった。

「二号って呼んでみていいですか」

「もちろん。どうぞ」

「ありがとうございます。じゃあ」

二号。声を聞いて、キューはくるっ、とシンジくんのほうへ顔を向けた。二号、やっと見つけたよ、二号。シンジくんは何度も何度もその名前を呼んだ。たぶん、最初は復讐が目的の旅だったはずだ。わたしはそんなことを邪推していた。

「こうして考えると名前って、死なない命みたいなものですよね。もういないけど、いつだって呼ぶことはできる」

キューはゆるやかに尻尾を振って応えている。わたしたちには、シンジくんの心の中までは分からない。だけど、キューの目だけはきっと誤魔化せない。

と、いうことは、そういうことなのだろう。

二月の日は期待するより短く、けれど想像するより長く空に残って、西向きの窓から薄赤く差し込んでいた。





その日、その日が最後になるという予感があった。

命があと一日なら、最後になにをする。わたしたちはあえて特別なことをしないことにした。

だけどその日、当たり前がすべて、いつも通りがいちいち、かけがえのない特別なものになった。だって最後の一日を経験するなんて、わたしたちにとっては初めてのことだから。

おさえても震えた。笑っていても涙が出ていた。時間。物理法則。わたしたちが組み込まれている大きすぎるカラクリのなかで、わたしみたいな小さな歯車が一人だけ逆向きに回ろうとしたところで、どうやったって抗えるわけがない。

痛い。疵口のない疵が痛くてしかたない。いつしかわたしとソウヘイをまとめて射抜いた、キューが放った矢の疵がずっと熱い。この熱い心臓につける薬がほしい。

「もうすぐ春だよ。ハル」

キューは反応しない。

「もうお昼だよ。ネボスケ」

やっぱり反応はない。

「いい天気だよ。ハレ」

「ご飯たべよ。ゴハン」

「散歩にいこう。サンポ」

キューは薄く開けた目で、一つゆっくり瞬きをした。よくがんばったね。おつかれさま。心では分かっている。

でも諦められないわたしもまだここにいる。

「だめ。いかないで。マテ!」

「手を離さないで。オテ!」

「いい子だから言うこと聞いて。いい子、いい子!」

かける声がむなしく響く。この部屋って、こんなに静かだったんだ。ふいにそんなどうでもいいことに気がつく。キューの息はどんどん小さく、浅くなっていく。

「イチ。イチ、イチ!」

生まれ持った名前でも反応がない。キュー、聞こえてないの?

「キュー?」

そのとき。

キューの目がふわりと見開かれた。

優しい黒目がきょろっとこちらへ向いた。

ああ。

なんだ、そうか、ずっと聞こえていたんだね。

「キュー。おまえ、ちゃんと自分の名前がキューだって分かってたんだね」

次に閉じられたまぶたは、それからもう二度と開かれることはなかった。




三月の日は、精一杯のぼってもあんなに低いところにある。

いつかキューが刺したあの矢の疵は、きっと、これからもずっと痛い。



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