教員の理不尽な指導をもたらす背景は、懲戒権にある②
「法的な効果が伴う懲戒」と
「事実行為としての懲戒」
学校教育法第11条に、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」とあることは前回触れました。この「懲戒」には二種類あります。それが、「法的な効果が伴う懲戒」と「事実行為としての懲戒」です。
「法的な効果が伴う懲戒」は校長が行うものです。退学や停学、訓告などがありますが、退学、停学は高校生が対象、訓告は小・中学生と高校生が対象です。
これとは別に、前回も触れた「事実行為としての懲戒」があります。児童生徒の日常の素行を口頭で注意したり、叱りつけたりする行為で、校長を含む教員個人が、自分の判断で生徒に対して加えることができます。教員が自分の判断で、誰から許可を受けることもなく、どのような懲戒を加えたのか記録する義務もなく行使できるため、「行き過ぎ」が起きやすいのです。
学校教育法施⾏規則26条1項に「校⻑及び教員が児童等に懲戒を加えるに当つては、児童等の⼼⾝の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない」とあるため、「必要な配慮」を欠いた懲戒は不適切とされるわけですが、事実上野放しと言ってもいいでしょう。
教員の資格さえあれば
自在に行使できることが懲戒権の問題点
この「事実上の懲戒」は、教員の資格を持つものであれば誰もがこの権限を持つこととされているのです。
『近代公教育の陥穽—「体罰」を読み直す—』鈴木麻里子・前田聡・渡部芳樹 著(流通経済大学出版会・2015年)の第二章 学校教育法が禁止する「体罰」とは何か—「『体罰』の禁止」をめぐる法規範と問題点で前田聡さんは、こう書いています。
懲戒権、特に「事実上の懲戒」が極めてゆるやかな限定のもとに行使できることが、理不尽な指導や過剰な指導を誘発していると思われます。
私は、指導を受けたことを原因、あるいは背景要因とした子どもの自殺を「指導死」と名付けました。2007年9月のことです。子どもの死に結びつくような生徒指導が行われるのは、一人ひとりの教員の属人的な手法、個人的な判断が自由に認められ、指導の名のもとに行うことができる、そこに指導死が起きる原因があるのではないかと考えています。
そこには教員の多忙などの背景があるのかもしれませんが、強い効果が出る指導方法、子どもへの関わりが求められるようになり、短期的な効果を狙う高圧的指導を選ぶことに結びついていくのではないでしょうか。
本来であれば、助言的、支援的な関わりが求められるにもかかわらず、短期的な成果を狙って高圧的な指導を行う。これは、薬でいえば劇薬です。副作用があっても効果があるがゆえに使う劇薬。そういったものが、副作用を意識することなく常用されてしまう。効果的だった、役に立った。これをやれば短時間で子どもが言うことを聞くようになると学んだ教員は、それを常用するようになるし、もっときつい薬を使うようになるでしょう。こんなことは容易に想像できることでもあります。
そしてこうした結果を出すこと、つまり子どもをコントロールすることは「指導力がある」として同僚や上司から、そして保護者からも評価されることになるのです。
指導と懲戒の境界線は
とてもあいまい
こうやって生徒指導と懲戒との境界があいまいなまま、属人的な手法でどんどんと懲戒権が濫用されていく。けれども、「教育上必要があると認めるときには」という懲戒権行使の条件が極めてあいまいな形で、あるいは抜け落ちてしまったような状態で行使され、「望ましい子どもの姿」に近づけるためには、懲戒を加えることは子どものため、懲戒を加えない限りは望ましい子ども像には近づかないの、懲戒権なしでは教育は成り立たない、といった誤った認識が教育の世界に広がっているのではないでしょうか。あるいはもう少し限定的に言えば、そう思っている教員がどんどん増えてきているのではないかということです。
あたかも懲戒を加えることが教員の務めであるかのごとく教育現場に浸透していて、高圧的な、あるいはもっと言えば理不尽な指導が容認される背景となっているのではないか。
懲戒が子どもたちに対してどのような効果を、どのような影響をもたらしているのかを、今の学校の常識をいったん離れて考え直す必要がある。それは、さまざまな学校で起きている問題を見ていけば、容易に想像できることではないかと私は思います。
to be continued.
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