【しらなみのかげ】日本近代の正統としてのキリスト教 #26
河上徹太郎の『日本のアウトサイダー』(中公文庫、1978)を読んだ。何でこの書をもっと前に読まなかったのか、と後悔させられた。蓋し、魂を震わせてくれた本物の名著である。この書の周囲を巡って、再び様々なことを考える機会があるだろう。そう思わせられた。
併し今や、河上徹太郎という名前を識っている人も少なくなってしまったのではないか。今では読まれたり参照されたりすることも少なくなってしまったが、河上徹太郎と言えば、旧制中学時代から友人であった小林秀雄と並んで日本に於ける近代批評の立役者である。
彼の周囲には小林の他にも、結核で早世した詩人の富永太郎、大岡昇平、永井龍男、三好達治、中原中也、中村光夫など綺羅星の如き文学者達の一群が居り、骨董収集鑑定で著名だった青山二郎や作曲家の諸井三郎、そして音楽評論家の吉田秀和等が居た。又、吉田茂の息子である吉田健一が、幼少期から青年期まで暮らした英国より帰朝してからは河上の弟子となっている。
そこから分かるように、河上という批評家は彼等と共に、正に昭和モダニズム文学の中心を担った人物の一人だ。ヴァレリーやジッドを日本に紹介したのも河上であり、音楽評論で鳴らした人物でもある。昭和前期には「シェストフ的不安」という語を流行らせ、その後小林、三好、諸井、そして同じく『文學界』同人であった林房雄と共にかの「近代の超克」座談会に司会的な地位として参加している。因みに私は、高校時代だったかに新潮文庫で出ている小林秀雄の『モオツァルト・無常といふこと』を読んで衝撃的な感銘を受けたり、中原や三好、そして萩原朔太郎の詩を好んで読んだりして以来、この昭和モダニズム文化に昔から非常に関心がある。そこに、「日本の近代」というものの一つの爛熟があったように思うのである。
扨、話を戻す。私がこの度読んだ『日本のアウトサイダー』は一九五九年に出版され、翌年新潮社文学賞を受賞することになる河上の代表作の一つである。この書の内容を一言で言えば、明治以後、真に個性的に生きた文学者や思想家を、立身出世主義に代表される功利的実証主義に反発したアウトサイダーとして捉えた外伝的な評論である。取り上げられているのは、中原中也、萩原朔太郎、三好達治、梶井基次郎、堀辰雄、岩野泡鳴、河上肇、岡倉天心、大杉栄、内村鑑三だ。『アウトサイダー』を書いたコリン・ウィルソンに想を得て河上は、彼等アウトサイダーを「幻(ヴィジョン)を見る者」(こちらはランボーに由来する着想だろう)として、興味の赴くままに、自分の身辺に関わる人物に至っては回想的な逸話の如きものも挟みつつ、鮮やかに描き出す。その淋漓とした筆致たるや、その人物の生きた実像を鮮やかに浮かび上がらせてくれる。
核心は、最後の章である「正統思想について」に語られていることだ。日本に於いては欧州の如く、正統(オーソドキシー)としての宗教というものが存在しない。そうであるが故に、アウトサイダーこそが真のインサイダー=正統なのだ、と彼は言いたい。彼の言うところによれば、伝統とは「過去にあって自分の外に繋がるもの」だが、正統は「直接自分の中にあるもの」だ。つまり先に挙げた人物達こそ、近代日本の社会から見れば異端的な形でその正統を(つまり何らかの宗教を、ということになるのだろうか)得た者達に他ならないというのである。その発想源は、チェスタトンの『正統とは何か』とT・S・エリオットの『異神を求めて』である。
両者の影響を受けてか、一見驚くべきことが語られている。近代日本は、近代物質文明、ヒューマニズム、そしてキリスト教を一緒に輸入した訳だが、キリスト教と対立する前二者は他ならぬキリスト教に由来する為に、キリスト教(乃至はキリスト教的なもの)こそが正統思想を成していると河上は言うのである。中原中也の中核にカトリシズムを見出し、そして、列伝の内村鑑三が最後に置かれている理由が此処でハッキリとする訳である。言うなれば、近代日本人が「直接自分の中にあるもの」を見出すのは、religionという泰西の語が典型的に表現する所の宗教、即ちキリスト教的なものである、ということになるのだろう。河上自身も注意している如く、それが宗門としてのキリスト教に限らない点が此処では重要であろう。
煎じ詰めればこの国に於いては、「直接自分の中にあるもの」を探求する者こそがアウトサイダーであり、本来は日本の伝統の内にはないものにそれを見出した者達がアウトサイダーであり且つインサイダーであるのだ。河上は言う。宗教というのは「宗教なしにすまされればすますがいい」が「これなしには済まされないということがその本質」となっているものだ。それを、近代日本人は何らかの意味でキリスト教的なるものに於いて見出したというのだ。
私もそれに心の底から同意する。そして、日本人がこの様な問題を再発見したのはキリスト教によってであった、ということにも同意する。これこそが近代日本の一つの核心なのである。誠に拙きものでしかないが日本に於いて西洋哲学を研究したことがあり、そして同時に、西田幾多郎を始めとした京都学派の哲学に親しんできた者からすれば、この国の肺腑を裏面から摑まされた思いである。
私には、「日本的近代」というものを河上が徹頭徹尾擁護している様に思える。これだから日本は近代化出来ていないのだ、という講座派的なインテリ的視点等、彼には微塵も見受けられない。戦後は戦犯の如く扱われ続けたかの「近代の超克」という発想が、彼にとっては「日本的近代」への異端的肯定に於いて落ち着きを得たのかも知れない。この辺はもっと考えなければならないと思う。
此の度、優れた文芸批評というものは素晴らしいと改めて感じた。詩想と余韻の散りばめられた文体と、独特且つ強引な文脈接続、そして作者の「俺はこう信ずる」という断定が、論理と実証では割り切れぬ直観を与えてくれるのだ。これこそが、批評が「文学」たる所以である。
(この文章は此処で終わりですが、皆様からの投げ銭を心よりお待ち申し上げております。)
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