【しらなみのかげ】 現実の有りの儘を言い当てる言葉を索めて #16
(昨日分のエントリーとして書いていた文章を投稿せずそのままにして眠りに落ちてしまったので、大分書き足して本日投稿致します。)
雪の華は儚い。
重い鈍色の空から、ふわりふわりとまさに花びらの様に舞い散る雪は、風に乗って地面に着くとすぐに消えて、足許の露となる。綿雪の白く輝く柔らかな繊維が、私の外套に付いては解ける様にして徐に融けていく。その時は、吹き付ける寒風が少しばかりか和らいで、辺りは聊かひっそりと静まる。雪というのはどんな雪でも、辺りに張り詰めた静けさを齎すものである。
これが、一月から二月の、冷え込み始める日の京都を飾る風物詩である。
まさに今日の昼は、そんな表情を見せる日であった。
ふと宙に眼を遣ると、はらりはらりと大粒の雪が疎らに降りてくる。昼の太陽は弱々しくも爽やかに、雲の間から薄水色の空を覗かせて輝いている。身体が冷えていく中で、不思議と心は落ち着いていく。積もらぬ疎らな雪も又、美しきものである。牡丹雪程に、儚さというものを見せてくれるものもない。
調子の良くない日ほど、儚さなるものをつらつらと考えてしまうのかも知れない。特段体調が悪い訳でもないが、昨日から厳しさを増す冷え込みに力を奪われたのだろうか、何事を為すにせよ普段よりもずっと緩慢であった。しかし、そういう日にこそ、言葉にならない様々な思考や感情がまるで、湯気の如く湧いては消えて行くのである。否むしろ、様々な観念やイメージを凝集していく集中力が衰えて、諸々の想念の通り道の如くなった自分の身体だからこそ、感じられる何かがあるのかも知れない。のしかかる疲れとは又異なる、何処か空っぽになった身体の感覚は、力を喪っているが、それ故にこそ何か普段感じぬものを摑まえてしまうものなのだろうか。
今日の昼下がりだったか、外で烟草を蒸している時だっただろう、まだ明るい時分に冬の日を透かして光る雪の華が大地に優しく浸み込んでいった、その時に感じた儚さが何故か脳裡に焼き付いている。
それは丸善から帰路に就く道すがらであった。その後、折角時間が取れるのだからこれから勉強をしようと何時もの烟草が吸える家からそう遠くない喫茶店に向かうことにしたが、ふらふらと舞っては消えゆく雪の華のことを何処かでずっと意識していた。モカブレンドを片手にその時読み進めていたのは、以前のエントリーで言及したモーリス・ブロンデルの『行為』である。
大著でもあるし大まかな流れだけでも把握する為、原書で読む前の下読みのつもりで邦語訳にて手に取っているものだが、いよいよ彼の哲学が持つ非常に神学的な側面が前面に打ち出されて行く終局に差し掛かっている。この書では、人間の行為と意志の反省的分析の中で、我々の中にあって我々を超えた神が根源的なる「意志する意志」として、「意志される意志」たる我々自身の自然的な意志を超出しているのかが論じられてきた。その終極に於いて、有限者たる我々の意志か、その根底にあって我々の意志を否定しつつ我々の意志に力を与えている超越者の意志かの二者択一が導出される。今日読んでいたのはその後の展開である。それは、根源的なものである所の行為が如何にして神と関わるのか、そしてその啓示の「文字」と伝統が織り成す「教義」と如何にして関わるのかを解き明かす場面である。
余りにもカトリックに寄り過ぎた護教論ではないか、との批判をブランシュヴィックやブレイエなど当時の哲学者より受けていたのだが、ブロンデルの哲学的思索は慥かにこの終盤より殆ど神学に密着している。だが、あくまでも行為実践を重んじる彼の知性主義への徹底的な反対が様々な面から透けて見えるのが興味深い。彼は、抽象的で観想的な形而上学的思想を批判し、教義の「掟」の「文字」と「儀礼」を日常の委細で卑近な場面に於いて実践する具体的行為にこそ、根源的な「存在」たる超自然的な無限に面することが出来る信仰の道であると述べる。「行為の学」を標榜する彼はその教義を飽く迄も「仮説」であると言うに留めはするものの、その教説は恰も、教養ある知識人よりも敬虔なる田夫野人にこそ人間の本質たる「自由」があると示唆している様ですらある。論理と生命を綜合する行為からしか、実在を探求する学というものは作られないとすら考えているかの様でもある。
ここには、原理の探求としての哲学と具体的な歴史的現実との捻れた関係が現れている様にも思われる。
私がブロンデルの哲学に関心を持った点の一つも、実は此処にある。それは約めて言えば、観念は歴史的現実たる具体の何処にどの様にして宿るのか、という問題であり、より突っ込んで言えば、足下の現実そのものを直下に言い当てる原理が「抽象的」或いは「観念的」なものになる事態とはどういうことか、という問題でもある。
ブロンデルは行為実践に於いてその問題に足を踏み入れている様に思えるが、同様の問いは美的な事象に関しても突き刺さっている。
儚き雪の華の有りの儘を言い当てる言葉は、理論ではない。空っぽになった身体は、図らずしてその具体の有りの儘が自らの内に飛び込んでくることを許す。純化された理性ではなく、歴史的現実の浸透した構想力が産む言葉が、その有りの儘と一体となって、表現となる。
然し乍ら、其の具体から湧き出ずる「何故」は又、何らかの理論を要請してしまうのである。
(此の文章は此処で終わりですが、皆様からの投げ銭を御待ち申し上げております。)
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