【しらなみのかげ】誕生日あたりのことども #27


毎日更新を始めると言いつつ、三日も更新をサボってしまった。
というのも、三日はかなりイレギュラーな日程を送っていたのである。
 
 
六月四日、僕は三十二歳の誕生日を迎え、ビストロとバーに行って親しい友人達に祝って頂いたのだが、その日は何と昼下がりから夕方に二、三時間しか寝ていなかった。というのも、その前日の夜からずっとTwitterのスペースにて、十五、六時間位、次々とやってくる人達と徹夜で喋り続けていたのである。我ながら殆ど気が狂っているとしか言い様が無い。喋り続けていると次々と湧き出す脳内の興奮物質で、完全にキマっていたとしか言い様が無い。本当に喋り続けていた。その余波は翌四日迄続いた。お気に入りのビストロに集まり、ピノ・ノワールのシャンパンで乾杯してからはミュスカデの白ワイン、フォワグラのテリーヌやフロマージュ・ド・テットを摘んでは、白味魚のポワレにステーキにトリッパと只管に美味しいものを立て続けに食べ、知らないバーに敢えて入っては片っ端から好きなウイスキーを飲む。最後は、誕生日プレゼントに貰ったレミーマルタンのV.S.O.P.を片手に事務所で何と朝迄飲み明かした。我ながらよく分からない元気が漲っていた。
 
 
翌五日は昼間から夜迄、親と盟友に用事があってそれぞれ電話で話し、その後十時過ぎから、高校時代からの男友達女友達とリモート飲み会をやってはそのままスペースに移行したが、疲れが出て一時頃には寝落ちしてしまった。盟友から別の知人に関する暗い洞察を聞いた後は、Ubereatsで頼んだ海老のスリランカカレーと唐揚げを遅い夕食にしつつ、高校の友人達と盃片手に語らった。そう言えば債務の罠に掛かったスリランカは破綻国家となってしまったが、私の人生も破綻寸前ではないだろうか。楽しく僕の激動の近況を話しながらそんなことを考えていると、何故だか知らぬが誕生日プレゼントに貰った地ウイスキーあかしの味が冴える。何しろこんな風に、この三日を取っただけでも我ながら本当によく解らない生活である。友人二人とスペースに移って喋っている途中、眠気が急に襲って来たのがいつかも憶えていない。混沌へと落ちて行かんとする意識の端で一つだけ分かったのは、この三日間、寝ている時間以外は、ほぼ誰かと話し続けていた、ということであった。何と心地良い喧騒。
 
 
そういう訳で、今日も未だ、何と無くその疲れが抜けていないせいか、体調が特に優れない訳でもないが殆ど何もしない時間を過ごした。一日を振り返ってみると、昼にカレーハウススパイシーで金沢風カレーを食べ、夜はキリンチャレンジカップの対ブラジル戦には見入ったが、その他は少し調べ物をした程度である。外を見遣れば低い雲から梅雨入りの疎らな雨が降っていて、湿った風を部屋に入れていた。やろうと思っていた仕事から直ぐに手を離してしまい、Twitterを眺めてはぽろぽろと呟く。こういう日は、何だか時間が遅くでもなく早くでもなく、ただぬるぬると過ぎて行く。或る意味で、それが休息にでもなっているのだろうか。併し、そういう何と無く力の出ない日は、本当に無為に任せて時間を過ごす時と違って、どうにも重苦しい感じが残るのである。こういう時、人生の有限性ということを考えると空恐ろしくなり、そして少し虚しい気持ちになる。夜中に啜るインスタントラーメンの味も、何だかぼやけて感じる。けれども、何ということもない、そういう感情は過ぎ行く時間の仄かな陰の如きものに過ぎないのであり、そのほろ苦さも又味わいである。気付けば今日は殆ど誰とも話していない。こういう柔らかな孤独は、それはそれで好きである。
 
 
こうして僕は三十二歳になった。この一年半余、何もかもが滅茶苦茶になりながらも、色々な事は何れも思わぬ方へと先に進んでいる。前へと進むしかない。兎に角先のことを考える。夏の入りの夜風は何だかひんやりとしていて、これから何か来たるべきものの気配を含んでいるようにも感じてしまう。
 
 
世界は激動の時を迎えている。
新型コロナウイルスが世界中に蔓延して二年以上が経つが、社会は徐々に元の通りに動き出している。併し、決して元の通りそのままではない。何かが変わってしまった。そして、ウクライナにロシア軍が侵攻して凡そ百日が経つ。現地では今も一進一退の激戦が続いている。二月二十四日以来、国際秩序は一変した。戦争の影響で原油価格は大幅に上がり、そして小麦はウクライナとロシア併せて世界シェアの十五パーセントを占めている為、価格が急騰している。更にその影響を被り、物価全体が上昇し始めている。台湾侵攻を虎視眈々と狙っていると言われている中国では、上海市等で敷かれていたロックダウンの余波が習近平と李克強の間の新たな政争へと転ぜんとしている。恐らく今後、これまでの世界の秩序に戻ることはないであろう。少しずつ戻って来た安閑たる日常は、再び薄氷の上のものとなりつつある。昨年のトンガの火山大噴火も、今年のカムチャッカの噴火も、大地震の前兆の如く打ち続く本邦の小さな地震も、どうしても何かそうした状況を予感させるものに思えてしまう。
 
 
固より灘に浮かぶ小舟の如き人生を送っている僕だが、寧ろそうであるからこそ、この乱世の到来は自分の今後と無関係の様には思えない。巡り合わせというのは様々な意味で不思議なものだからであり、そして僕は運命というものを信じているのである。我々は、何であれ読めぬ天下の大勢を読んで生きていかねばならず、その読めるか読めぬか判らぬ所に運命というものが横たわっているのである。
 
 
人生というのは、畢竟、大洋へと出帆した船の如く、その都度その都度、前へ前へと進んでいくしかない−最早戻ることの出来ない過去へと押し戻されつつ、決して辿り着くことのない未来へと向かって。
 
 
水無月や生まれし星の酒の味
五月雨やふる年月も夢の中
雨上がり昨日の世界に蚯蚓出づ
 

(この文章はここで終わりですが、皆様からの投げ銭を心よりお待ち申し上げております。)

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