一輪のミモザの花はまず一輪にて咲くべきである−「国際女性デー」に当たって
本日、3月8日は「国際女性デー」であるそうだ。1975年(国際婦人年)に国連が定めたものであるが、元はと言えば、1904年3月8日にニューヨークにて婦人参政権を要求する女性労働者がデモを起こしたことに起因する。この日について、ドイツの社会主義者クララ・ツェトキンが1910年にコペンハーゲンで行われた国際社会主義者会議で「女性の政治的自由と平等のために戦う」記念の日とするよう提唱したことが起源である。日本でも1923年(大正12年)から行われているようである(当時はやはり社会主義の女性運動家達が法の目を掻い潜って式典を挙行していたという)。
調べてみると、この日にちなんだイベントは世界中で行われている。イタリアの「ミモザの日」が有名だそうだ。イタリアでは、この日は「festa della donna」(女性の日)と呼ばれている。元々は男性が女性に感謝の印としてミモザの花を贈る習わしだったそうだが、今では女性同士でミモザの花を贈り合うということらしい。だから、この日の意義を訴えるパンフレットやホームページでは、黄色いミモザの花、或いはミモザイエローが掲げられている。
この日に関する最大の事件は、何と言っても1917年にロシアで起こった二月革命である。3月8日(ユリウス暦2月23日)、ロシア帝国の首都ペトログラードにて、パンの配給を巡って行われた、女性労働者を中心としたデモが、男性労働者や兵士を巻き込んだ大規模な蜂起になり、遂には帝政を崩壊させたのである。
これらの一連の経緯は、女性運動が社会主義と共に始まり、社会主義と共に広がったということを象徴している。19世紀末から20世紀に様々な場面で進んだ反差別運動が大抵の場合、国際社会主義運動とセットだったことをここで思い起こしても良い。国際社会主義運動は、性別、民族、人種、門地、身分など社会構造に起因する差別を打倒せんとする反差別運動と大方においてリンクしながら進められてきたのである。
それは近代において、資本主義と国民国家によって進んできたところのレイヤー化(価値の平準化や境界付け)を伴う世界のフラット化と対抗しつつ、同時に進んできた社会構造から個人を解放するという意味での世界のフラット化であった。
20世紀の社会主義は、莫大な数の人に夢を見せつつ、そして莫大な数の人々を犠牲にしつつ、国家的実験としては失敗に終わった。そのように、国家的実験としては失敗すると共に、今度は20世紀の後半から文化的な実践と批判の中で別の形を取りながら進められることとなった。そして現代では、そもそも経済格差を解消することを主目的としていた社会主義が、それを忘れ去って文化的な実践や批判の方にばかり傾注していることがしばしば批判されている。
だとすれば社会主義に付随して展開してきた国際女性デーもまた、創設された時と現代とでは、きっと異なる意味合いを持っているだろう−そんなことを考えながら、先程からネットの言論をふらふらと見て回っていた。
ネットでは、ミモザイエローに包まれて、様々な女性、或いは男性が、声を発していた。例えばTwitterではハフィントンポストの呼びかけ動画と共に、#わたしを勝手に決めないで というハッシュタグと共に「誰もが性別にとらわれずに生きられる社会」を様々な人々が訴えている。また他のハフポストの記事では、「女性はもっと輝ける」「女性活躍」を強いる声に対する疑義と共に、女性の「若さ」を重視したり、「年相応」のファッションを求めたりすることに対して、「自分相応」で行くべきだと主張されている。他にも、「男性基準の美意識」が優先される「ルッキズム」が批判されている記事などもあった。
そして、これらの訴えに共通して添えられている理念が「多様性」「ダイバーシティ」である。
つまり、嘗て「女性の政治的自由と平等のために戦う」日として制定された国際女性デーにおいて主張されることが、今日では個人個人の価値観をそれぞれ多様な生き方として認めるべきだという主張なのである。しかもここでは、そのためにこそ、女性のエンパワーメント、すなわち、男性からを主軸とした、女性に対する諸々の社会的規定の撤廃が訴えられている。
このような、既存のロールモデルに囚われない個人の生き方を称揚しながらも、既存のロールモデルにおいて下位であるとされてきた女性のアイデンティティを男性中心の社会構造から解放するということは何を意味しているのだろうか。これは、抽象的に考えるならば、一方では目的として属性に囚われない生き方を称揚しつつ、他方ではそれを実現するための手段として属性に則ったアイデンティティを主張する、ということであろう。
先程の近代化の図式に即して考えた時、この運動は本当にフラット化なのか、という疑問がここで湧いてくる。勿論、目的を実現するための手段としての女性運動である、と考えるならば、それはフラット化であると考えられるかも知れない。しかし、そのように手段から目的へと段階的に両者を切り離し得るのか。
そもそも現代の先進国では(イスラム圏などは一先ず別として)、女性の参政権や自由権、そして社会権など、諸々の制度的なレベルの平等は実現されているのである。だからこそ、ハフポストのようなメディアは、例えば「ルッキズム」のようなミクロな社会的行為の網の目がなす構造にフォーカスしているのだろう。しかし、制度的な自由と平等というハードの面でのフラット化が実現しているならば、そこでこそ、そうしたミクロな社会的行為が織りなすソフトな桎梏を破って女性が個人として自己形成する主体性が、本格的に求められねばならない筈である。そこでもう一度、例え手段としてであっても男女の不均等という既存の社会構造に由来するレイヤー化を持ち出すことは、むしろもう一度レイヤー化されてしまった主体へと女性を閉じ込めることになりはしないだろうか。
ここには、目的を実現するための手段であると言いながら永劫その手段を振り回し続けるという、手段と目的の逆説的な転倒が見られはしないだろうか。これはまるで、ソヴィエト連邦をはじめとした20世紀の共産主義国家が、前衛党による国家の廃滅を謳いながら他のどの国よりも強固に、前衛党が国家を支配し存続させ続けたことと軌を一にしているようにすら思える。
仮に、女性がこれまでの女性の「型」に嵌らない、自己決定的な主体性を持って生きることを志向しているのであれば、同時にこれまでの「型」による非主体的な恩恵をも放棄しなければならない筈である。ハフポストが主張するような女性のエンパワーメントは、徹底的なフラット化を訴えるように一見見えつつも、そこにもやはりレイヤー化の問題を持ち込んでいるように思えるのである。つまり、本当に根本的な次元から「多様性」「ダイバーシティ」を主張できているのか、疑問符が付されてしまうのである。
例えば、年収や職業、或いは社会的地位の分布などで一先ず男女間に格差があるにしても、「女性活躍」に対する疑義が出ているように、男性と同等の数の女性がその年収や職業、或いは地位を得ることをまさに主体的に望んでいない可能性もある。既存の社会構造に即した主体化が問題であるのだ、と言うのであれば、そのように保守的に主体化してしまっているまさにその女性の主体性を見逃すことはできない筈である。同じ問題は、例え自分が高学歴高収入になっても自分と同等以上の男性を配偶者として求める女性の「上方婚」傾向などにも見られる。
手段と目的の転倒。ミクロな主体的個人を実現するための運動が、マクロな既存の社会構造を批判的にながら一先ずの図式として用いてしまっているがために、いつまでもそのマクロな既存の社会構造からしか個人を見ることが出来ていないということ。真に女性を解放したいと思うのならば、このジレンマを解決する必要がどうしてもあるように私には思える。
その為には恐らく、男女の非対称という既存の社会構造を批判する前に、それから一歩離れて、差し当たり女性の女性としての主体性を女性達自身が見つめ直す必要があるだろう。そしてその上で、自己を変容へと晒す必要があるだろう。嘗てと違い、今や公共的に、自由と平等というフラット化が齎されているのである。現代という時代にあっては、ミクロな社会的行為の中に散在して形を変えながら残存する既存の社会構造は、きっとそのことを前提とした上でしか、問い直すことの出来ないものであるだろう。
#わたしを勝手に決めないで と言う前に、まず自分でこそ決められることが、あるのではないか。
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