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【しらなみのかげ】 下品なことを言う自由について #18


皆さんはシャルリ・エブド事件を覚えているだろうか。

 

フランス、そして世界を震撼させた、あの大事件である。

 

2015年1月7日午前、フランスのパリ11区にある週間風刺新聞『シャルリ・エブド』本社を、覆面をして武装したアルジェリア系フランス人のサイード・クアシとシェリフ・クアシの兄弟が「アッラーフ・アクバル」「預言者の復讐だ」などと叫びながら襲撃し、編集長、風刺漫画家、コラムニスト、警察官ら12人を殺害し、車で逃走した。9日には、共犯者のマリ系フランス人アメディ・クリバリがパリ20区にあるユダヤ系スーパーマーケットで人質を持って立て篭もり、4人が射殺された。犯人達は捜索の末、最終的に警官隊により射殺。8日に射殺された警官もクリバリの犯行であることが後に確定したので、全部で17人の犠牲者が出た大事件である。

 

事件後、イエメンのサラフィー・ジハード主義組織「アラビア半島のアルカイダ」より犯行声明が出されたことから分かるように、イスラム原理主義者の犯行である。移民である犯人達は、刑務所を出入りしている内にイスラム原理主義に出会って「覚醒」した者達である。サイード・クアシは、イエメンで戦闘訓練まで受けていた。彼等は「本気」だった。

 

何故、何が彼等を「本気」にさせたのか−それは「預言者ムハンマドに対する下品な風刺」である。

というのも『シャルリ・エブド』は、表現の自由とライシテを貫く左派系の雑誌である。極右と並んであらゆる宗教の原理主義を徹底的に批判し続けて来たのだが、その風刺というのが極めて挑発的で下品なことで予てより有名であった。

その表紙を調べて頂けると分かるが、それはもう、下劣極まりない。諷刺を通り越して最早侮蔑や中傷、単なる悪口としか言いようがない下劣さである。そして、ありとあらゆるものを本当に見境無くと言って良い程、その下品な絵で書き続けているのである。

 

そもそもイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドの肖像を描かれること自体が冒涜に当たるはずである。にも拘らず『シャルリ・エブド』においては、その極めて侮辱的な意匠で何度も預言者が描かれ続けていた。その酷さというのも、「彼等のような連中ならばここを襲撃しない訳が無い」と或る意味でイスラム過激派のジハード認定に「納得出来て」しまうレベルの「配慮の無さ」である。その表現は、神と預言者への冒瀆そのものであるとしか言いようがない。

 

しかし事件後、「私はシャルリ(Je suis Charlie)」という標語を掲げた全仏で三百七十万人規模のデモ「共和国の行進」が起こり、各国首脳もそれに連帯を表明した。

とんでもなく配慮が無く下品なことを言う人達であっても、その表現には全く同意出来なくとも、その人達がその表現の為に殺されるようなことはあってはならない−怒りと連帯感に包まれた事件当時のフランスでは、そういう見解が沢山表明されていたように記憶している。

フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドが『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(堀茂樹訳。文春新書、2016年)で激しく糾弾している如く、その運動の背後には、彼が「ゾンビ・カトリック」と呼ぶ高学歴の自称「反体制派」左派の自己欺瞞的な排外主義もまた、蔓延っていたであろう。移民を下層階級へと追いやり、無視するブルジョワが、クアシ兄弟やクリバリのようなテロリストを生み出したこともまた真実であろう。

しかしながら、シャルリ・エブドのどうしようもなく下品極まりない表現が、批判は受け、訴訟はされても、規制や検閲を受けない自由というものはやはり、存在しなければならない。

 

 

一切賛同出来ない表現であっても、自分の感情を著しく害する表現であっても、その表現がなされ、世に存在することは認めなければならず、検閲や規制は禁止しなければならない−御存知の通り、これが「表現の自由」ということである。

 

この原則は、例え「本気」の人が相手であっても、変えてはならない。

他の無くてはならない権利との衡量が必要である場合は最小限度にすべきであり、出来る限り変えてはならない。「明白かつ現在の危険」という非常に厳格な規則を、出来る限り維持すべきである。表現の自由は優越的性格を持つ権利である。

 

その理由は、「本気」の人に「配慮」して表現を検閲・規制等行えば、途端に自由は無くなるからである。だから、「本気」の人が忿怒の余りか支配欲の増大からか、将又「お気持ち」の暴走からか、兎に角「本気」になっていたとしても、何らかの仕方で表現そのものを潰したり規制したりしようとする動きには、必ずや反対しなければならない。

 

人は直ぐに、「公序良俗」とか、「公益及び公の秩序」とか、「社会的合意」とか、様々な理由を言って自らの気に入らない表現の規制に走ろうとする。しかしながら「自由な場」としての公共を確保し続ける為に、表現の自由は余程のことがなければ制限されてはならない。

 

それ故に刑法上の侮辱罪や名誉毀損罪も、それが容易に適用されることがあってはならない。人には誰しも裁判を起こす権利があるにせよ、それらの適用範囲の拡大は、「自由なる場」を容易に毀損する虞があるからである。それらの罪は、法廷に於ける厳格な審理を経て、認められるものでなければならない。

 

法は道徳や政治とは範疇的に異なる。

況してや、人間の真摯な「お気持ち」とも、高い「人権意識」などとも異なる。

法は非人称の命令であり、それ故に非人情でなければならないのである。その非人情が、私達の自由と平等を守るのである。

私達が「良い」とか「悪い」とかを考えるのは道徳や政治の次元であって、法の次元ではない。法の次元での自由なり平等なりには、端的な「してよい」と「してはいけない」しか存在しないのであるし、その最低限度の「してよい」と「してはいけない」が「自由な場」を担保する。そうした非人情なものだからこそ、他の宗教を下品な仕方で冒瀆するという厚顔無恥な表現であっても許されるべきものとなれるのだ。

 

 

思うに、下品で低俗なことを言う権利は上品で高尚なことを言う権利よりも遙かに、社会的に守られにくいものである。当然である。下品で低俗なのだから。社会道徳の中で普通は許されない言葉を使ったり表現を用いたりするのは、顰蹙を買うことである。

 

「バカ」とか「アホ」とか「キチガイ」とか「ウンコ」とか「チンコ」とか「マンコ」とか「チンカス」とか「マンカス」とかそういうことを言い続けていたらそれはもう、決定的に下品である。眉を顰めたくなる上品な人々が沢山いることも理解出来る。

 

下品で低俗な言葉で人の言動を批判するともなれば、尚更であろう。下劣な表現が人の「お気持ち」を害することは、とりわけ上品な人々の「お気持ち」を害することは疑いないのだから、(まさに『シャルリ・エブド』の如く)その表現が攻撃的批判に使われることは尚更その様な人々の「お気持ち」を害することは言うまでもないことである。

人と場合によっては、何らかの事由で「本気」になった人に侮辱や名誉毀損の廉で訴訟を準備されるかも知れない。無論、訴訟を起こす権利も保障されている。訴訟を起こしたいのであれば、正当な手続きを経て起こせば良いだろう。

 

しかし、真に「自由なる言論空間」を確保する為には、最低で酷い表現であっても、可能な限りその存在自体は擁護し続けなければならないのではないか。そして、それに対する批判の存在もまた、擁護し続けなければならないのではないか。気に食わない人の表現に対して幾らでも物言いを付けることは許されるべきであるが、何らかの圧力で以て気に食わない人の表現を潰すことは行ってはならない。

 

そして表現を潰すのは、国家権力だけではない。怒れる人々が集まれば、一つの表現などいとも容易に吹き飛ばされてしまう。

 

意外にも、教養溢れる上品な人々程、このことが分からない。「教養溢れる」から、普段から高尚な事柄について高等な語彙を用いて話しているのだろう。「上品」だから、はしたない事柄や卑猥な表現には一切触れず、卑語俗語や罵詈雑言の類など口にするのも憚られる、否、考えることすら恥じらいを覚えるのだろう。

兎も角も、そういう人々は「表現の自由」というものに対して何故だか不寛容である様に思われるのだ。

 

また昨今では、教養溢れる上品な人々の中には、「抑圧的な社会構造」とか「男性中心主義」を地球規模で鋭く問題視する非常に「人権意識」に溢れた方々を数多くお見受けする。そうした人々は、下等で野卑だとか、俗悪で陋劣だとか、そうした単に「品」に関わる問題ではない高い意識をお持ちである。

 

そうした人々は余りにも鋭敏で繊細の「人権感覚」からか、下品な表現の中に社会的に糾弾すべき「差別構造」などを幾らでも見出してしまう。マイノリティの人々の「私の生きづらさ」を生み出してしまう表現は決してそもそも社会に存在してはいけない、それらを検閲し規制しなければならない−高い「人権意識」の召命である。それらの表現が、「下品である」のならば、尚更である。

 

尤も、唯一神アッラーと預言者ムハンマドの為なら殺人でも何でもする狂信的篤信者達と違うのは、彼等はその様に暴力は用いず、自分達はその表現の「被害者」ないしは「被害者の側に立つ者」であると主張する点である。流石は、近代文明社会の最先端に生きる人々というだけのことはある。

彼等はしばしば、「非暴力」で、「上品」で、「高い人権意識」があれば、「被害」を訴える為に、または「被害者」の為に、言論の範疇を越えることも厭わない。そうして、「下品」なもの、「人権意識」の欠けたもの、「加害者」に、何らかの仕方で「距離を取る」などの方策が推奨されることになる−多くの署名等「数」を集めれば、そのことは実際に私的に下品な表現を検閲し、規制することにも繋がる。彼等の唱える「自由な言論空間」は、その様にして特定の人々(彼等の言う「マイノリティ」なり「被害者」なり)の人情のみに染め上げられたものでしかない。

 

 

然し乍ら、繰り返したい。法というものは、非人情である。

非人情であるからこそ、誰しもがその法によって守られるのである。

被害者のみならず、加害者であっても、人権そのものはある所以である。

 

人間は人情無しには生きていけない。社会もまた、人情無しには成り立たない。確かに、美醜善悪こそが、人間にとっての価値である。政治と道徳は、その厳しい利害関係と価値判断の見極め難い合致と激烈な相剋、そして奇妙なる擦れ違いによって営まれる。それらは、人情である。しかし人情は人情であるが故に、時に酷薄であり、残酷である。時には、「上品」でないもの、当世風の「人権意識」にそぐわないものによってこそ、人が救われることがあるのも人生の真実である。例え衆人に好まれぬものであっても、それがそこにあること自体を何人も否定してはならない。

それは、イスラム過激派が理想として説くような唯一全能たる神による全的な統治ではなく、人間の社会を人間自身によって作ることを選んだ近代的な共同体の運命である。

 

そういう理由で私は、「下品なことを言う自由」こそが、この社会の「表現の自由」の何よりの証左であると思うのである。それこそが、形式的に「自由なる場」を作る非人情な法の許す所である。上品さも、高い「人権意識」も、決して非人情なる形式としての人権それ自体ではない。

 

そもそも、人間とはいつでもどこでも「上品」でいられるものだろうか。高い「人権意識」を持っていられるものだろうか。社会はいとも広く、皆それぞれ立場も境遇も違うのだから、誰しもが同意する「アップデートされた意識」なんてものは存在しないのではないだろうか。

 

私達の判断は自由だが、所詮は有限である。法を除けば、精々のところ「社会常識の範囲内」で考えるしかない。「社会常識」は、上品なものにも、下品なものにも、時宜を与える。しかしその時宜は、飽く迄も「宜しくする」であって、そもそも絶対ではない。それは、飽く迄も「程度問題」なのである。

そしてこの「程度問題」は、形式的に「自由なる場」に於いてこそ、成立し得るものである。私達は、その「程度」の吟味に常に耐え続けなければならないのである−全ての人に共有されている非人情なる「自由なる場」を勝手な人情で染め上げて、恰も自らが神の如き権能を手にしたと勘違いしない為に。

 

 

自らの不快な表現でも真に「自由なる言論空間」の為にその存在自体は甘受し、飽く迄も自らの表現に於いて批判し続けるという態度が、自由な近代社会に生きる私達の領分なのである−その「自由なる場」を犯さんとする一線が超えられた時、私達の社会は果たして私達にとっての『シャルリ・エブド』を守れるのだろうか。


 
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