無限の努力が出来る「コミュ障」は最強なんじゃないか
私はロボットの出るアニメが好きだ。ロボットが出るアニメか、SFドラマを好んでみる。もしくは、鋼の錬金術師に出てくるアームストロング少佐のようなキャラがいると脊髄反射的に見てしまう。そういう意味において「ぼっち・ざ・ろっく!」は明らかに自分の守備範囲外なのに、随分と話題になっているので試しに・・・と第1話をみたら、その面白さにあてられて、2日間で一気に全話を見てしまった。
素直に面白かった。自分が、この手のアニメに慣れていない、ギターもバンド文化も分からないというのが背景にあるかもしれないが、とっても面白かったのだ。たぶん、それは「ぼっちちゃん」と「虹夏」のキャラクターに惹かれたのだと思う。睡眠時間を失ったうえに、つい、こんな駄文を残そうと思ってしまうが程に。
ぼっちちゃんは凄い。いきなり結論だが、彼女は「無限に努力が出来る」才能を持っている。対価としての時間を差し出しまくって、ギターのために時間を全力で投資してきた。そんなことが出来る人間はそうはいない。同じ事を続けられるというのは希有な才能だ。キャラクターとしては「コミュ障」がどうしても強調されているけれども、コミュ障と引き替えに手に入れた時間を、ギターに集中して集中して集中して、これでもかと費やした。これは普通じゃ出来ないと思う。
自分の青春時代を考えても、アレやコレやとブレて色んなものに興味をもって、色んな物事に顔を突っ込んで、色んな趣味や知識を(人生を振り返って後から見れば、結果的にはということだけれども)つまみ食いしてきた。色んな趣味の仲間達と出会い、別れてきた。おかげでコミュニケーション能力はそれなりに育ったと思う。それが無駄だったと思っている訳ではないのだけれども、それは「何者にもなれない自分」の発見の連続でもあって、敗北の歴史だ。中途半端な挑戦を続けた愚かな戦歴だ。
ぼっちちゃんは(高校生という設定からすれば当然なのだろうけれども)、「何者かになれる自分」を信じて疑っていない。「何者かになる」ために全力で時間を差し出す。ここにおいて、コミュ障という負の側面は、むしろプラスに働いている。時間は有り余っている。脇目も振らずに時間を投資する。並の人間は有り余る時間をもてあますのに、ぼっちちゃんは違う。純粋に、凄いとしか言いようがない。無限の努力が出来るコミュ障というのは、特定の分野では最強なんじゃないか。穿った見方かもしれない。隣の芝生が青く見えるだけかもしれない。でも、そんなことを考えながらアニメを見ていた。
なぜ、こんなことを書き残そうと思ったかというと、研究者の世界でも、なんとなく似た感覚を覚えるからだ。大学院時代、お世辞にもコミュニケーション能力が高いとは言えない後輩が別の研究室にいた。明らかに変わったヤツだった。研究は面白そうなのだけれども、ゼミを聞いても説明が下手すぎて、何をしようとしているのかイマイチ分からなかった。ただ自分が研究室を離れて暫くしてから、その後輩が最初に書いた論文が出た。読んでみたら、とてもとても面白くて、ワクワクさせる内容で、研究者としては能力が高いんだろうと思わせるに十分だった。そして今、その後輩は研究者として大成した。誰もが羨む雑誌に論文を連発し、学会発表は注目されてヒトが集まる(プレゼンは昔に比べれば上手くなった。けれども質疑応答は昔も今もまるで駄目だ)。
飲み会で何度かあったがコミュ障なのは変わってはいない。その証拠に、あれだけの業績を持ちながら大学には所属しようとしない。本人も研究所があっているという。ぼっちちゃんを見ていて思ったのだ。ぼっちちゃんがギターを愛するように、あの後輩もきっと心底、研究そのものが好きなのだ。世界を救いたいとか、世の中を平和にしたいとか、世の役に立ちたいとか、若者を育成したいとか、そういうんじゃない。純粋にサイエンスが好きで、そのためだけに時間を費やすのが楽しくて仕方がない。快楽に近い感覚。そういう類いの研究者っているのだ。
アニメの「ぼっち・ざ・ろっく!」では、高校生がライブハウスでバイトをしながら、バンドを組んでいる。ライブハウス、バンドとくれば、(アニメでは、とてもとてもキレイで汚れ穢れのない世界として描かれているように見えるけれども)ややカウンターカルチャー寄りで、どちらかというと不良っぽさがイメージとしてまとわりつく類いのもので、いわゆる「健全で模範的な高校生」とは少し違う道を歩んでいる高校生と捉えられてもおかしくはないはずだ。そういうレギュラーとは違う世界の片隅では「無限に努力できるコミュ障」は最強なのではないか。勿論ぴたっとハマりさえすれば(もしくは虹夏のような「コミュ力おばけ」が近くにいれば)ということだとは思うが。
一方で「大学の研究室」というのは、「幼少の頃から集団で育てられてきた個々人が、ばらされる瞬間」でもある。小中高と大きな集団の中でコミュニケーション能力を求められてきた世界から、研究室という「密な小集団」に放り込まれる。ライブハウスとは違うけれど、そういうちょっと世間からは外れた、象牙の塔とまでではなくても、ちょっと怪しげで、不思議な世界の片隅で、無限の努力を投資できるコミュ障がいれば、メチャクチャに輝くチャンスがあるのではないか。
そして思うのだ。じゃぁ教員の役目はなんだろう?と。正しく導く?正しさって何?こんな「何者にもなれなかった自分」を呪っているような器の小さいド底辺の研究者にそんなこと出来る訳がない。かつては「動物のお医者さん」に登場する「漆原教授」みたいな濃いキャラの先生も沢山いたと思う。あのようなキャラの濃さがあれば、才能のあるコミュ障と絶妙なシナジー効果が生まれるかもしれない。でも、今の大学が求めている教員は、研究が出来るだけではなくて、運営や会議や書類作成や委員会や父兄への対応などを、そつなくこなす先生だ。コミュ障の学生が研究室にくれば、苦悩する先生ばかりだ。自分だってそうだ。学生とのコミュニケーションに悩む日々だ。
自分には虹夏のような「コミュ力おばけ」の異能はない。彼女のように周りを巻き込んで、さらに引き上げて行く能力というのは希有だ。どうしてもぼっちちゃんという濃いキャラクターに目が行くけれども、虹夏の「コミュ力おばけ」ぶりも尋常じゃない。アニメでは所々に差し込まれる背景説明から、(原作を読んでいないので分からないが)彼女なりの大きな苦悩をバネに手に入れてきた能力なのだろう。でも、あんなお化け能力、現実世界で手に入るの?というレベルだ。トリックスターかと思うほどだ。ド底辺研究者には真似出来ない。才能あふれるコミュ障が目の前にいたとしても、虹夏のようには出来ない。
じゃあ、自分が教員として出来る事ってなんなのだろう?自分は何者にもなれず、コミュ力お化けにもなれなかった。もしもぼっちちゃんのような無限に努力出来る才能をもったコミュ障が研究室に入ってきた時、自分の出来ることって、なんなのだろう?コミュ障だった後輩を指導していた教員に聞いてみたい。もう引退しているが、きっと会う機会はあるだろう。その際は必ず聞いてみようと思う。コミュ障のぼっちちゃんと、コミュ力おばけの虹夏が作り出す、強烈な才能に満ちあふれた世界をみていて、そんなことを考えていた。実に良い、面白いアニメだった。感謝。