論文公開のスピードに時代を思う
投稿していた論文が2度のリバイスを経てアクセプトされた。まずまずの結果だったのを、無事に論文に出来たことを嬉しく思う。
しかし、すごい時代になったなと思う。アクセプトから僅か数日で、Accepted Manuscript が公開され、その翌日には Researchgate の自分のプロファイルに新しい論文として登録されていた。Google Scholor に登録されたのは、そこから数日後だった。今後は、Article Metrics でSNSが監視され、論文がどのような読まれ方をして、どのような評判を得ているのかというのがPCの前に座っているだけで分かる時代になった。恐ろしく便利な時代になったなぁと心から思う。
研究のスピードが違う、と思う。世の中はこのスピードを求めている、しかし自分が求めているのは、もうちょっとゆったりした時間軸に漂いながら研究をすることだったと思う。いつから、こうなったのか。検討もつかない。
が、時代に文句をいってもしかたないので、リバイス中に同時進行で投稿した論文の「Awaiting Reviewer's Scores」が変化するのを待っているし、さらに、その次の日本語の論文も書き始めたし、学生の日本語論文、後輩の英語論文の添削も始めた。だいたい、その論文くらいまでが、年内に出せるであろうアウトプットだが、可能であれば、大学院生が書いているあと1本のネタの英語論文化を投稿までたどり着ければいいなぁと思っている。
今年の夏休みも妻子だけ実家に帰して、自分は大学で仕事漬けの予定で、人間のくずの代表みたいな予定がたてられてしまった。X月末に開催される集中講義のうちの2日間を新規で受け持ったことを言い訳にしてはいるが、結局は毎年なにかしらの仕事が増えているのを言い訳にする「いつものこと」だ。そして、これも「いつものこと」で、妻子が実家に戻っている最中に、罪滅ぼし、と意味の分からない言い訳をしながら学生を飲みに誘う。単純に誰もいない家に帰っても寂しいだけなのだが、妻と子供と一緒に実家に帰るような時間も金銭的余裕もない。学生と安酒を飲むのが、精一杯の夏休みだ。
慌ただしい研究スピードの中で揉まれ続けて、人間としては漂流している、と思う。自分が思い描いていた「楽しそう」で「生き生きしている」生き様なのか?傍目から自分がどうみえているのか?気にしても仕方ないのは分かっているが、10年後の自分が後悔と共に今を振り返るんじゃないかと心が重い。あとXX年、この生活をして、あとXX本の論文を書いたら、自分の科学探究心を本当にみたせるのだろうか。昔は論文がアクセプトになる度に嬉しくてウキウキしたのに、今ではアクセプトされる度に、安堵からの不安、という複雑な気分になってしまうようになった。
きついなぁ、とため息が出てしまうが、同時に頑張らねばと自分を奮い立たせる。酒を飲んで、良く寝れば、たいていのことは良い方向に向かうと信じて頑張るしかない。自分に言い聞かせる意味で、ここに残しておく。