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君は誰? ~「知らないうちに愛されていた」に寄せる個人的一考察~
このnoteに着手したのは2022年のHappy Smile Tour千秋楽の直後です。
2500字ほどの下書きを今の今まで冷凍保存していました。
当時の筆跡が多く残っていますが、それはそのままにして適宜括弧書きで補足をしていければと思います。
読みにくい部分があると思いますが、よろしくお願いします。
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2018年の初披露から2022年の3月まで、ほぼすべてのライブで歌われてきた「約束の卵」が幾度とない困難を超えて孵化をしたその先に、新たなアンセムとなりつつある曲がある。
昨年の「Happy Smile Tour 2022」ツアーやひなくり2022の本編を締めくくった、日向坂46で初めてのシンガロングになるはずの曲。
「知らないうちに愛されていた」
だ。
壮大でありながら無駄のないオケに、一人の少女の自戒を美しく歌う、素敵な曲だと思う。
その本編の終曲としてこの曲を聴き、ふと歌詞を口ずさんでいる間にこんなことを思ってしまった。
この曲が "ライブでの" 歌唱を通じて聴き手に届けたい「思い」とは何なのか。
この曲を「約束の卵」を継ぐ存在として歌う意味は何なのか。
W-KEYAKI FES2022でも本編の終曲として歌われていたが、配信で観ていた時はこんなことを考えたことはなかった。
正直、この曲を無理にでも解釈しようとするのは無粋だと思うところもある。
ただ、今後マスク着用前提での声出しが解禁され、シンガロングとして完成するであろうこの曲に対する疑問にできるだけ納得のいく回答を出したく、個人的一考察としてこのnoteを書いていこうと思う。
(実際には声出しが解禁され、披露された4回目のひな誕祭の後に投稿することとなりました。)
歌詞の整理
まずは、この曲の歌詞を一通りさらいつつ、状況と疑問の整理をしていきたい。
(細かく分けて読んでいくと登場人物の関係性が見えにくいので、大きな塊で読んでいきたい)
1番
ピアノが聞こえたら そのメロディー 弾くのは誰か
何故だか何となく 考えてしまうけど
それより 誰のためにそのピアノ弾いているのか
想像する人なんか そんないないだろう
してあげたことだけは覚えてるけど さりげなくされていたことって
当たり前のようで すぐに忘れてしまう そうなんだ
知らないうちに愛されていたと ようやく今気づいたよ
そんなことも知らずに 君のやさしさに甘えてた
見えないとこで僕の弱さを 全部支えてくれてたのに
君が泣いていた その理由さえも知らずにごめん
登場人物は「僕」と「君」、
より細かく言えば今の「僕」と、過去の「僕」と「君」だ。
倒置的に要素が出てくるのでこの部分だけでどうこう述べるのは難しいが、
「(過去の)君」 = 僕のためにピアノを弾いている
ということはわかると思う。
また、ここでいう「ピアノ」とは本当にピアノの演奏を指しているのではなく、
「君が僕にしてくれたこと」を指す例えとして用いられていることもわかるだろう。
では、「ピアノ」=「君がしてくれたこと」とは何なのか。
それはサビで歌われていて、
「愛」であり、「優しさ」であり、「弱さを支える」ことである。
という示唆は読み取ることができるが、詳細は明示されていない。
そして、
「君」はさりげなく、見えないところでそういったことをしてくれるので、
「僕」はそれに気づかず、逆に「君」が涙を流しているときに支えてあげられなかった。
そんな「僕」の自己嫌悪が歌われているのが1番だ。
2番
あれからこの曲が風に乗り流れてくると
ピアノを弾いている君を思い出すんだ
別人だってこと もちろん分かっているけど
遠くに面影を探してしまってる
傷つけてしまった無神経さ ほろ苦い記憶が蘇って
誰もいない場所を何度も振り返る 切ないよ
だけど結局 愛想尽かされて 君は去ってしまったね
遠く消える足音 僕は存在にハッとした
失ってから大切なものそれが何か分かったってことさ
そんなあやふやな 不確かなものが愛って学んだよ
2番では、今の「僕」による回顧が述べられている。
「この曲が風に流れてくると…」では、
「(今の)僕」はふと誰かの愛や優しさを感じると、
そこに「君」の影を感じて、何もできなかった「(過去の)僕」に対する自責の念に苛まれるのだろう。
そして、Bメロでは僕が過去に「君」を傷つけてしまっていたことがわかる。
ここが私の感じる咀嚼しがたい部分であり、このnoteの投稿に半年もかかった理由なのだが、ここはまた後で話題に出したい。
サビでは、
そんな「君」は僕から離れて行ってしまって、
関係がで限りなく薄まったことでようやく自分の愚かさに気づき、失った愛の大きさを知ることになったことが歌われる。
Cメロ
見えてなかったのか 見てなかったのか
若さはいつだって 言い訳ばかり 都合いいように
その時僕は愛されてたか 覚えていないはずない
きっと嘘をついている 自分の思い出を書き直して
(以降1サビ繰り返し後)
許してほしい
Cメロでは、「今の僕」による回顧が歌われている。
何か理由・原因があって
「僕」は気づいてないフリをしていたか、気づきたくなかった。
当時の自分を「若い」と言っているように、今の僕は当時からはある程度年齢を重ねているようにも思える。
そして1サビに戻り、年を重ねた僕はようやく
「知らないうちに愛されていた」
と自覚する。
僕の解釈
以上の歌詞の考察を踏まえ、まずは疑問点を整理していきたい。
・僕は決して悪い人ではなさそうだが、「君」が愛想を尽かして離れるほどのこととは何だったのか。
・君と僕の関係性は何なのか
秋元康の書く「君」は無限の可能性を秘めていると思っていると思っているが、やはり一番最初に思い浮かぶのは「恋人」だろうもしくは「友人」だろう。
いろんな方のSNSの投稿やブログ記事、自分のツイートにいただいたご返信やインタビュー記事をたどると、
「親」ととらえても納得のいく部分が多く、
この曲が収録されたシングルを最後に卒業した「渡邊美穂」のことをメンバーは思い浮かべるそうだ。
「親」という視点は自分には全くなく、示唆をいただいたときになるほどと思ったのだが、
2番のサビ、「愛想尽かされて君は去ってしまったね」がどうしても引っかかってしまう。
「渡邉美穂」ととらえても同様だ。
そう、
「愛想尽かされて君は去ってしまったね」
の一文が自分の中ではこれらを否定してしまうのだ。
どうこの曲を解釈すれば良いのか。
ここまでが、僕がHappy Smile Tour千秋楽の直後から4回目のひな誕祭まで、約半年も冷凍保存させていた内容だ。
長く放置しすぎていくら冷凍でも腐りかけていたら申し訳ない。
なんでこんなに長い間放っておいたのか。
理由はただ一つ、解釈しようと書き出したのに咀嚼しきれなかったからだ。
何を考えても違うような気がしていて、ずっと納得のいく答えを出せなかった。
ひな誕祭で声出しが解禁になることが発表され、それまでにはなんとか書ききりたいなと思っていたのだが、
時々下書きを見返して、うーんと唸ってはなにもせずに閉じることを繰り返していた。
そして時は過ぎ2023年4月1日。
横浜スタジアムで開催された四回目のひな誕祭の1日目に僕は参戦し、
この曲を周りのおひさまと、日向坂46と共に歌いあった。
正直僕は何もこの曲を理解できていないと思っていたので、披露されるとしても少し複雑な気持ちで歌うことになると思っていた。
でも、あのスタジアムの中に響いた歌声の一つとして自分の声が溶けていくのを感じた時に、なぜか涙がでてきた。
嗚咽のような声になっても、たぶん誰にもばれていなかったと思う。
そのくらい大きな歌声があの大きなスタジアムに木霊していたことは、
耳から、というより一つの大きな振動として自分の中に入ってきていたと思う。
ここからは、その時に僕が感じたこの曲の解釈をまとめていきたい。
もしかしたら違うかもしれないけれど。あの場で感じた感情に勝るものは今はどこにもないと思う。
この曲は「僕」の思い込みだと思う。
同時に、「僕」は何か特別な物語の主人公ではなく、生身のただの一人間だと思う。
そして、「僕」は「日向坂46」なのだと思う。
よく考えてみれば、「僕」=「日向坂46」という構図は当たり前なのかもしれない。
でも、これが「思い込み」であるということはこの曲を矛盾なく聴くためにとても大事だと考える。
ひらがなけやきの時代からから数えれば、約7年間日向坂46は活動してきた。
最初期の1期生がみんなネガティブだったという話は時々インタビューやラジオ・映画で語られていたりするし、
最近ファンになったという方も、彼女達が多くの苦悩と闘い現在進行形でここまで進んできていることは分かっていると思う。
グループとして大切な3年間をコロナに邪魔され、長い間目標として頑張っていた東京ドーム公演も何度も延期された。
怪我や体調不良でなかなか全員が揃わなかったり、彼女達を阻むものはまだ多く、「停滞感」なんて言葉がよぎることもあるのかもしれない。
そんな彼女達が不安に苛まれることは想像に難くないと思う。
(※記事公開後、この「思い込み」について更に納得感が増す解釈をコメントにいただきました。
ぜひそちらにも目を通していただけると嬉しいです。)
そして曲中で歌われる「君」の「優しさ」や「愛」は、僕たちおひさまの応援のことだと思う。
僕はもともと
「アイドルなんてただの生業の一つだし、お金さえ稼げればなんだっていいんだろうな」
みたいに思っていたタイプの人間だったので、握手会なんてただただ大変なイベントなんだろうなとしか思っていなかった。
でも、彼女達から語られるエピソードや2回目のひな誕祭での表情、ライブやイベントに向き合う姿勢を見て、
日向坂とおひさまの間にはちゃんと信頼関係があって、お互い支えあっている存在なのだということを思い知らされた。
だから、ミーグリやレターを通じて彼女達を応援して、「君」であるおひさまが近くに寄り添っていることを示す姿勢は一つ一つが尊いと思う。
こうしたおひさまの「愛」は、たとえどんよりした雲に彼女達が覆われたとしても、雲の隙間から降り注ぐ陽光となってしっかり彼女達に届くのだと思う。
少し話が逸れてしまったが、
「知らないうちに愛されていた」
は別に「僕」である日向坂46が「君」であるおひさまを傷つけたわけでもなく、逆におひさまが愛想をつかしたわけでもない。
苦しかった環境が日向坂46をネガティブにさせてしまったけどそれはただの思い込みで、
おひさまの注ぐ愛が彼女達を不安の沼から引っ張り上げる。
僕は四回目のひな誕祭を通じて、この歌をそう解釈した。
最後に
この曲の解釈に正解はないと思う。
あくまでこのnoteに記したことは「一考察」であり、
僕の解釈はこの通りだが、各々の解釈が等しく尊いと思う。
別に一貫性がある必要も無いし、
僕の解釈も日が経てば変わっていくかもしれない。
誤解を恐れずに言えば、逆「JOYFUL LOVE」だと僕は思っていたり。
それだけ「知らないうちに愛されていた」は魅力に富んだ曲だと思う。
この歌はこれからも歌い続けられるだろう。
歌詞に込められた愛がライブを通じて、
会場全体に響く歌を通じて、
誰かを幸せにできるように、
これからも歌っていきたいと思う。