自分優先か自己犠牲か
最近、仕事が体力を使うものばかりでnoteを書く余裕がなかったせいであいてしまった…
ここ数日、職場のことで思うことがある。
基本的な情報として、珍しくほとんどのことがオートマチックになっていて、あまり人とかかわり合いがあるような会社ではない場所で、今は働いている。
ベースとなる決まりがあって、それと逸脱する行為や違う事をやっていると怒られるような所なのだが、結局はベースとなる行動でやっていると目標には到底追いつかない。
目標に追いつかない人間は、ビッチリと管理者がつき、また叩き込まれたりする訳だが、基本の所からは少し外れる形で教えられる。
それならば、初めからベースの部分を変えてしまえばいいのに…
それでついてこられない人間は、どうやったってついてこれないわけだし…
効率をどうのこうの、安全がどうのこうのと言う割にめちゃくちゃである。
過去に経験した現場関係の仕事なんかでもそうだが、上の立場にいる人間というのは下のことなんて何も考えていない。
何よりも利益が優先
自社の成長こそが正義
その考えは経営をするならばわからないではない。
それならば世間体を気にして、安全どうのこうのやカッコイイことを言わないでもらいたい。
言うだけならサルでもできる。
ちゃんと改善していく姿勢が見えたり、従業員全員の声が届いて、即座に動くような所であれば良いのかもしれない。
そんな場所なんて果たしてあるのかどうか。
結局使われる身の人間は、
郷に入っては郷に従え
この言葉にあるように、何も抗うことは出来ない世界なのだろう。
それが嫌ならば、独立をするか1人でどうにかするしかないわけだ。
僕は、おかしなことはおかしいと言いたい。
自分が例え犠牲になろうとも、他の人がそれで救われることがあるならば、それでもいいと思う。
もちろん、自分の為にもだ。
いや…カッコはつけることはやめよう。
何より自分が1番だ。
そしてそれに付随して、他の人も良くなってくれればそれにこしたことはない。
ここまで書いて思ったことは、前述にある
何より自分が1番だ
ここに集結している。
世界中の多くが、とどのつまり
何より自分が1番なのだ。
中には本当に「人の事を1番」に思える人もいることは知っている。
しかしそういう人の腹の中にも、必ずこの自分が優先であるという気持ちはあるはずだ。
世界中の人々が「自分を犠牲にしてでも、人のことを1番に」と思えるならば、争いなどもなければ世界で起きているような貧富の差もないだろう。
これが何よりの証拠になると思う。
自分が優先であることが、人間だと受け入れてそんなもんだと受け入れるか、自分を犠牲にしてでも人の為になるようになるか。。
このことに関しても正解もない。
本当に人生というのは正解不正解がない。
少なくとも今の世界では、自分を犠牲にして人のためにやることが美しいとされている。
母数が少ないからだ。
こういう人が増えれば、それは特別なことではなくなり、次は自分を優先にしていく人達が正義だと言われ始める。
人生なんてないものねだり。
自分と正反対の人を見るとそちらに行きたくなる。
そんなことで右往左往するよりも、自分がどう生きることが幸せであるか。
それを見つけて、自分が人を羨むことなく生きられる人生を歩むことが、何より大事なことなのではないか。
少しでも残りの人生を楽しく過ごせる選択を、常にしていきたいと思う。
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