三文の値打ちもない
脳内に澱のように溜っていたこれまでの苦い過去が、脈絡も、根拠もなく唐突にフラッシュバックをし、突然、あぁ〜とか、クソっといった奇声をあげるものだから、妻にはよく怒られていた。
齢を重ねるにつれ、記憶から解放されつつあるものの、毎朝の通勤で銀座線に乗る前にすれ違う人の中に、杖を付きながら歩く出勤途中の若い女性がおり、彼女を見るといつも激しく心が揺さぶられる。
「僕はひとりの女性の、歩むべき真っ当な人生を奪ってしまったのかもしれない」
中学1年の終業式は、2年生との合同で、体育館で行われた。約650人の生徒が一同に集まるため館内はとても混み合っていた。
僕はバスケットボール部に在籍し、その場所には一学年上の同じ部活の輩もたくさんおり、目に入れば都度挨拶をしていたが、ひとりに捕まった。
体育会系のうんざりする上下関係において、「センパイ」との距離感がつかめず苦労をしていた中で、文武両道で、かつイケメンなそいつからは特に目の敵にされていて、その時も呼ばれて近づいた瞬間、思いっ切り両肩を押され、数歩後退りした。
なんだこいつ、とアタマにはきつつも、「やめてくださいよ~。先輩」と、ヘラヘラして戻ると、無言のまま、また押された。さすがに館内も人が溢れていたので、他の生徒に、ましてや2年生にぶつからないよう後ろを振り返りながら、また数歩退いた。視線の先には、同じクラスの「モーさん」という女子が他の子と話をしており、どうやらそいつは、少し特徴的な外見の彼女に僕を当てて、二人で転ぶ光景を頭に描いているのだろうことが分かった。
しかし、それを知っていながら、よせばいいのに引きつった笑顔で僕がそいつの元へ戻るものだから、今度は最大の力で押され、半ば吹っ飛ぶようなかたちで、「モーさん」の足を巻き込むように落下した。
とても鈍い感触があり、「モーさん」の片足を変な方向に曲げていた。
館内が騒然としたのだけは覚えている。しかし、その後の記憶は断片的で、救急車のサイレンが微かに聞こえたこと、僕は無傷だったがしばらく保健室に隔離されていて、教室に戻ると既に体育館での終業式が終わり全員が着席し、その視線が一斉に向けられたことくらいしか覚えていない。
一年生最後の通知表をもらい、教室に出るとそいつが待っていた。恐らく、帰りづらいのだろう。家でお昼を食べないか、という。学校から歩いて10分ほどの距離にある、50坪ほどの一軒家で、品のいい母親が迎え、昼食を作ってくれた。言いにくそうに今朝の顛末を母親に報告すると、そいつが事前に調べてあった「モーさん」の家に直ぐに電話を入れ、平謝りをしていた。
そいつの家から、我が家に戻る足取りは重かった。母にこの件をどう伝えよう。母は頭ごなしに怒る人ではないので、そのことに怯えていた訳では無いのだが、先輩に故意に突き飛ばされて、同級生を巻き込んで大きな怪我をさせてしまったという息子としての格好の悪さをどう説明したらよいのかという想いが、一刻も早く「モーさん」のご家族に謝罪を入れなければならない気持ちと葛藤を始め、とうとう母に切り出せないまま、あれから35年も経過してしまった。母親が死んで今日で丸21年になる。
「モーさん」はとても穏やかな女性だった。そして何事も笑顔で応じてくれるので、男女問わず彼女を嫌う人はいなかったと思う。少し骨太の体格で、顔が牛に似ている気がしたので、「モーさん」とあだ名をつけたら、いつの間にか皆がそう呼ぶようになった。
「モーさん」とは2年生以降クラスが変わり、その日以来、会っていない。避けていた、わけではなく、僕が一方的に事故を風化させ、「モーさん」についての関心をなくしていたのが実情である。
ただ、卒業までの間、校内で数回見かけた「モーさん」はいつも杖をついていた。事故との関連性など疑いもせず、部活や何かで怪我をしたのだろう、そんな程度にしか考えつかなかった。
しかし、突き詰めると、その杖は2年、3年生になっても取れることがなかった、ということではなかったか。中学を卒業し、20年くらい経て、そんな恐ろしい事実に狼狽した。
もう連絡を取れる同級生もいない。いや、何より事実を知るのが怖い。
あのとき。「モーさん」にぶつけられるのが分かっていたのに、何故あいつのところに戻ったのか。「モーさん」の家族に何故お詫びすら伝えなかったのか。
被害者にとって、三文の値打ちにもならない後悔を勝手に抱いて、毎日会社に向かっている。
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