軍艦島にとうとう上陸出来た。
2009年の上陸解禁以来、今や約200万人 (人口の約60人にひとり!)がその地を踏んでいるというのであるから、完全に乗り遅れたが、わたし個人としては35年来の宿願を果たしたことになる。
中学時代、長崎港から連絡船で行ける廃墟だらけの島があるから行こうと大学生の兄に誘われ、浦和からそれだけの目的のために高島を訪ねた。住む人の消えた団地型の炭鉱住宅が建ち並ぶ姿に足がすくんだ。兄に引きずられ、恐る恐る部屋の中に立ち入ると、今にも玄関から「ただいま」という声が聞こえてきそうな生々しい生活感が残っていた。
団地から離れ、次のフェリーまでの時間、5kmもない高島の周回道路を歩いていると、南方に宇宙戦艦ヤマトに登場する白色彗星帝国と、わたしの中で完全にイメージが重なった海に浮かぶ高い岸壁に囲われた構造物が肉眼ではっきりと見えた。それは明らかにわたしがイメージしている「島」とは異なるものだった。
東南アジアに住んでいたとき、郊外に出るとバイク事故で警察や救急を待つ人が道路に置かれている光景を良く目にしてきたが、瀕死の重症を負って気を失っている人と実際に亡くなっている人とでは、外見は同じでも感覚的にその違いは明白で、魂という存在が実感出来たものだ。
絶望的に過疎化し、廃墟で覆われた高島から見ても、その構造物から冷気が漂っているのが感じられた。
その構造物の名前が軍艦島(端島)と知ったのは、自宅に戻った後で、それと同時に堅く閉ざされ、高島のように気軽に行ける場所でないことも学んだ。
それから約10年後、大学4年の夏休み。所属していた探検部で軍艦島上陸プランが上がり、参加した。内容は高島のグラバー邸別邸跡にキャンプを張り、釣り舟をチャーターして、軍艦島に上陸。島内で数日を過ごすというものだった。
既にその頃は他校でも軍艦島への上陸記録があり、それほど難易度の高い話ではないと思っていた。
しかし、高島到着後、計画はあっという間に壁にぶち当たった。釣り舟を手配しているお店を訪ねたが、船は出してやっても良いが、上陸は絶対に認めない、と粘り強く交渉しても答えは変わらず、何軒かのお店をまわったが、どこからも同じ返答であった。
高島も同様に炭鉱で成り立った島であり、廃墟化した軍艦島を厳格に管理をしていた三菱の支配が完全に及んでいることから、高島の住人にお願いをしても、興味本位で東京から来た大学生に対し、首を縦に振るわけはなかった。
確かにどの上陸記録も、高島より軍艦島への距離が2kmほど長い野母半島から舟を出している。そこは石炭の埋蔵エリアを外れ、三菱の威光が届かなかったからだと思う。
数日経つと、珍しく女性部員の参加が多く、我々男性部員はキャンプそのものに浮足立っていたので、あっさり上陸は諦め、軍艦島の周りを釣り船で巡ってもらうプランで妥協した。いずれにせよ言えるのは、昔から僕も、その周りの人間も詰めが甘いということである。
ところで、軍艦島には不思議がある。
三菱の私有地であり、石炭を掘るためだけに存在する人工島ゆえ、水、電気等ライフラインの整備、確保は三菱の命題であった。
島内の住居は社宅や寮という扱いで、家賃、水道、電気、風呂総て合わせて10円だったという。慢性的な水不足ゆえ、各家庭には風呂はなく、共同浴場を使った。こちらも無料である。
軍艦島の住民は炭鉱従事者とその家族ばかりでない。売店、食堂、娯楽施設に携わる人もおり、狭い島で炭鉱従事者と生活を分けることなく、また、これは想像であるものの費用対効果を考えるとこの人たちに対し別途お金を徴収するシステムはないと思われるから、彼らは三菱のプロパティと福利厚生下で暮らす、言わばAuthorised residentsということになる。
さて、この島には遊郭もあった。当然、遊女たちもいて、ここで暮らしていたはずである。では誰が、彼女たちのここでの生活を認めていたのか。
この島の世界遺産登録にあたり、隣国から執拗な反発を受け、それに対する日本人の反感も大きかったが、真摯に見つめなければいけない歴史があることもまた事実である。そして、それこそ人を次の一歩へ進めるのだと、わたし自身を省みた2時間30分のツアーだった。