がんという打出の小槌
知り合いの90歳の男性が亡くなった。数ヶ月前には寝たきりの奥さんへの買い物に、元気でマッカーサー通りを自転車で走る姿を見ていただけに突然の訃報だった。
聞いたところでは、先日がんが見つかり、放射線治療を行ったが、それが身体に合わず、急速に体調を崩してしまったという話だ。
既に平均寿命を超えている老人を条件反射的に治療へ向かわせるほど「がん」に対する世の中の先入観は根強く、そして医者はその認知バイアスを利用して小股を掬う。
迷った末、がんの放置を決め亡くなった川島なお美氏は死の間際、積極的治療を行うべきだったと、放置を助言した近藤誠氏への恨みを口にしたようだが、信念がないまま行う静観という判断にはどのような結果であろうと後悔は伴う。この老人は治療を選択し、自らの寿命を縮めてしまったが、放置をしてたとえ3年生きたとしても、死の原因にその無為を求めるのであろう。
わたしの父は医学に過度な期待を持たず85年を生き、今後もその信念を貫いて行くのだろうが、間もなく80を迎える妻の両親ががんを告げられた時、わたしは何を言えば良いのか。結局悔いのない生に対する答えは自身のこれまでの人生の中にしかないのであるから、どんな愚かな判断であると感じても、黙って尊重するしかないと決めている。