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バレエ小説「パトロンヌ」(56)

「すごーい! 一番前! それもまん真ん中!」
マユはチケットの番号とシートの番号を何度も照らしながらうれしそうにはしゃいだ。チケットの番号は8列だが、劇場に来てみると、オーケストラボックスがあるため事実上の最前列だったのだ。甲斐を知った頃に生まれたマユも、15歳。数日前に中学を卒業し、来月は高校生となる。お祝いに、と誘うと、マユは「それ、私のお祝いじゃなくて、ママのお祝いじゃない?」と悪戯っぽく笑ったが、それでも「『眠りの森の美女』だったらストーリーもわかるし、ハッピーエンドで華やかそう!」と、うれしそうに受け取った。

(たしかに。私のお祝いでもある。母親として、なんとか無事にマユをここまで育ててきたお祝い。そして、甲斐を見続けてきたお祝い)

マユにバレエを習わせようとしたこともあったが、すぐに思い直した。自分の趣味を押し付けても娘は幸せにはならない、と。マユは成長してサッカーの好きな女の子になった。

「この席、選んで買ったの?」
オーケストラボックスの中をのぞきながら、マユは尋ねる。
「ううん、ファンクラブの先行予約だから、どの席が当たるかはわからないの」「それじゃ、ほんとにラッキーだね!」
「ところが! ママが最前列当たったのはこれが2度目! それもボックスなしの、正真正銘1列目だったのよ」

あれは、まだバレエKが誕生する前だった。甲斐がロイヤルに所属しつつ、オフシーズンには日本でプロデュース公演をしていた頃。届いたチケットに「1列20番」と書かれていたのを目にした瞬間、ミチルの心臓は止まるかと思うほどギュンと収縮した。ほぼ中央ではないか! 目の前に甲斐を見られる。こんなチャンスが巡ってこようとは。ミチルは劇場に向かう途中で花を買った。淡い紫色のスイートピーを小さく束ねただけのもの。カーテンコールに花を投げ入れるのを、一度やってみたかったのだ。

初めて甲斐のバレエを観た日、大きな花束を胸にステージ近くまで駆け寄ってきた女性が、オーケストラボックスに阻まれうまく花を届けられなかったのを、ミチルは覚えていた。
「ボックスがない最前列だったら、スマートに放れるかなと思って」
「でも、ロビーに『花束やプレゼントはこちらへ』っていう受付があったけど」
「今は厳しくなっちゃったわよね。あの頃も、一応スタッフが『ご遠慮ください!』とか叫んで制してはいたけど、結構プレゼントの手渡しとかあったのよ。花束とかぬいぐるみとか、何が入ってるかわからないけど紙袋とか」
「ヘえ〜、そうなんだ。それで、ママのお花はちゃんと届いたの?」
「……まあね」

ボール投げは大の苦手なミチルではあったが、ありったけの力を込めて投げ入れたスイートピーは、甲斐の足元のすぐ横に落ちた。甲斐はそれに気づいた素振りもなく、視線は2階の客席の方に向けて、何度も礼をしている。落ちたブーケは捨ておかれたままだ。

(それでもいい。私が投げた。それを、甲斐は見ていた。私があなたを称賛している。その気持ちは届けたのだから)

ファンの想いは一方通行、とミチルは自分に言い聞かせつつ、甲斐を見つめた。そして気づいた。
いやいや、その逆じゃないか! 私たちは、彼から息が止まるほどの素晴らしいパフォーマンスをもらっている。だからこそ、拍手し、花を贈り、また劇場に足を運ぶのだ。
もらっているのは私たち。
そう思った時。
幾度かのカーテンコールを終え、袖に向かって歩き出した甲斐は、ひょいと腰をかがめ、スイートピーを手にとった。そしてその手を、客席に向かって大きく振り、舞台から去っていった。

思い出すたびに、胸が熱くなる。
甲斐が優しく振る手の先のスイートピーは、今もミチルの目にしっかりと焼きついていた。(つづく)

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仲野マリ
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