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バレエ小説「パトロンヌ」(74)

最後の見せ場、グラン・パ・ド・ドゥ。
甲斐のエスパーダをこれまでのエスパーダと比べてしまったように、今日のバジルを甲斐のバジルと見比べてしまうのは、仕方のないことかもしれない。若いキャストのバジル&キトリは、下手ではないし、勢いもあるけれど、心を躍らせてくれない。甲斐にあって、他のダンサーにないもの。それは一体何なのか。

(私は今まで、バジルに何を求めていたんだろう?)

答えは、3回目の「ドン・キホーテ」観劇によって出された。
この日の甲斐は1回目に観た時よりも好調で、ミチルは安心して彼の紡ぐバジルの青春冒険グラフィティに身を委ねることができた。

(やっぱり甲斐のバジルは唯一無二だ!)

まずは音楽性。
甲斐が踊ると、まるで指先から音符が飛び出してくるような気がする。オーケストラを率いているのが指揮者ではなく、甲斐の踊りが先導しているかのように。甲斐の体はタクトであり、かつ楽器でもあった。こんなにも音楽と親和するダンサーを、ミチルは他に知らない。最初に感動したダンサーが甲斐だっただけに、もはやミチルは音に踊らされているダンサーには満足できなかったのだ。

音楽と一体であるということは、感情と一体であることでもある。湧き上がる感情。弾ける喜び、ほとばしる恋心、激流となる怒り、そして押しつぶされるほどの悲しみ。一つ一つのジャンプやステップ、回転……。ドヤ顔でポーズを決めた時に腰にあてがった腕が作る肩や肘の角度さえからも、ミチルはバジルの心の機微を感じていた。

バジルが両腕を頭上に上げて軽く輪を作り、両脚を絞って爪先立ちする時、丈の短いベストの下に見える細いウエストが、いよいよ細くなる。それは、体を上下に伸ばしているだけでなく、左右にもひねっているからだ。絶妙なひねりの角度が、バジルの立ち姿を最高に美しく、いなせに見せている。

「どう? 俺、かっこいいでしょ?」

こうした「心と体」の一致性を実現するために、甲斐が何を追求していたか、ミチルはずっと後になって、甲斐自身の言葉から知ることとなる。
「上半身と下半身が一緒に動いているうちはダメなんだ。上半身の動きに、下半身がついていく。それができている人は、どんなジャンルでも一流だよ。ゴルフもそうでしょ」

そのバランスを、甲斐は「天性で」知っているのではなく、「習って」やっているのでもなく、「戦略的」に実施していた。それも若い頃から。そこが、他のダンサーとの決定的な違いだった。(つづく)





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仲野マリ
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