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バレエ小説「パトロンヌ」(32)

KAI暦9年

 その秋、リカは久しぶりにロンドンへ行くことにした。結婚したアデルとマイケルの間に生まれた愛娘シーラに会うためだ。もちろん、バレエも観に行く。今シーズンの目玉は「ミスター・ワールドリーワイズ」。新進気鋭の女性振付家トゥワイラ・サープの意欲作で、寺田甲斐は初演から「マスター・ブリング・ザ・バッグ」という重要な役柄を担っている。それはつまり、この役が甲斐の能力と特徴をベースに振り付けられたことを意味した。「彼にしかできない役」とさえ評されるほど彼の魅力が十二分に引き出されていると聞き、リカは再演したら必ず観ようと心に決めていた。そして今回、再演初日である10月20日のチケットを、アデルたちに頼んで取ってもらっていたのだ。

 シーラのために買ったプレゼントの数々をスーツケースに入れているところへ、一本の電話が入る。アデルだ。

「リカ、大変! KAIがロイヤルを辞めちゃったよ!」

 「KAI TERADA ロイヤルバレエ電撃退団」は、イギリスでは大きく報道され、デイリー・テレグラフなどは一面トップで報じた。驚愕と、惜しむ声。寺田甲斐はプリンシパルになって5年、すでにロイヤルにはなくてはならない存在になっていたのである。そして「もうロンドンで彼のバレエを見られない」失望は、怒りにも形を変えた。キャスティングが発表されているということは、一旦は出演を了承していたはずではないか。それを無視する形で退団した無礼なアジア人を、拾ってやった芸術監督に対する恩知らずな行為だと切って捨てる、厳しい意見が少なからず挙がったのも事実だ。

オペラハウスの建て替え問題もあり、数年間は常設劇場を失うことでレパートリーや役柄が限定される不安から、他にも数人の有望なダンサーが同時に抜けた。ロイヤルを飛び出して、彼らは何をしようとしているのか? 第一報ではそこまでは追い切れていない。一緒にグループを作るのか、それともバラバラになって他のバレエ団に行くのか、それともバレエそのものを辞め、新たな分野に乗り出していこうというのか。もちろんリカにも見当はつかない。ただ、同じく日本人としてイギリスで仕事をした経験のある身としては、いつになっても「東洋人として初めての」がまとわりつく日常が、時として居心地の悪さを運んでくることだけは、漠然と察せられるのだった。(つづく)

 

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