バレエ小説「パトロンヌ」(71)
バジルとキトリのグラン・パ・ド・ドゥ。
2人が手を携えて登場する。まずは2人で踊る、アダージオから。
「ドン・キホーテ」というと、人はバジルのソロばかり話題にするが、
このアダージオこそが、最高の芸術作品ではないだろうか。
最初は軽快な3拍子。パーティで踊りを楽しむような、ちょっと田舎クサいともいえるズンチャッチャから始まる。長めの休符があって終わりかと思いきや、おもむろにそれまでと全くことなるゆったりとした4拍子が開始。男女の関係も、単なるお遊びから、少しかしこまったものとなる。やがてフォーマルな形におさまりきらなくなった感情が、徐々に高まっていく。目と目を見つめ合い、魂が呼び合い、そしてクライマックス! 2人の気持ちは頂点へ。大きく高くリフトし、素早くフィッシュダイヴ! 最後はまた、フォーマルに戻る。あたかも、出会って、惚れて、恋して、燃えて、そして結婚式にたどり着くがごとし。結婚する2人のこれまでが、すべて詰まったような、そんな一曲なのだ。
リカは、その曲調に酔った。
(甲斐のバレエを追いかけて、何年になるだろうか。)
当初、失恋で空いた心の穴を埋めるべく、疑似恋愛のように甲斐の姿を追いかけていたリカも、今はもう一つの季節を終えていた。鉄壁と思っていた鎧を着けていたのにもかかわらず、ふいに突かれた槍の傷は思いのほか深く、何かにすがらなくては生きていけないほど弱りきっていた。幸せそうなカップルや、世の中をポジティブに生きている人を見るにつけ、心がざわつき、胸が痛んだ。そんなリカにとって、「恋する者に裏切られる女性」を描いたバレエは、実に、自らの物語だったのだ。オデット、ニキヤ、ジゼル、カルメン…みな、自分と同じ運命の中にいた。
だが、バジルとキトリは違う。2人は幸せに満ちた結婚式を上げようとしている。その場面に居合わせながら、それでも今のリカは穏やかだった。微笑んでいた。心からおめでとうが言えた。繭の中で心とからだをしっかりと休養したリカは、再び世界に飛び立とうとしている。ロンドンでの就職が決まったのだ。かつてキャリアと恋愛とがごちゃまぜになって、恋愛を否定されたらキャリアまで否定せざるを得なかった日々は幕を引き、苦い恋愛も、自分の年輪として受け入れるだけの余裕ができた。自分の足で、立つ。本当の意味での自立した女性のスタートラインに、リカはようやく着こうとしていた。
(甲斐がロンドンを経て、日本にバレエKというホームグラウンドを持ったように、私はこれから、ロンドンでもう一度、自分の居場所をつくる。失敗も、経験も、みんなそのための一里塚なんだ!)
バジルのソロが始まる。
静けさの中、黒い衣裳をまとった甲斐が、一歩ずつ、その鋼(はがね)のように締まった脚で、ゆっくりと舞台中央へと歩み出した。(つづく)