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バレエ小説「パトロンヌ」(29)

 寺田甲斐が踊るのは、「海賊」のパ・ド・ドゥである。組む相手はヤング・バレエ・フェスティバルと同じ高科美智子だった。
 バレエでは多くのパ・ド・ドゥが恋人同士の踊りだが、「海賊」は違う。本来ならば、ここは3人で踊るパ・ド・トロワ。海賊の首領コンラッドが恋人メドゥーラをアジトの洞窟に迎える場面で、甲斐が扮するアリは、コンラッドに全幅の信頼をおく、いわば「片腕」ともいえる忠実な腹心にあたる。だから、メドゥーラとアリは恋人ではない。恋人のパ・ド・ドゥにするのであればアリを省けばいいのだけれど、アリのソロには豪快なジャンプやピルエット(回転)など見どころがふんだんにちりばめられているため、「アリを観る」が優先されて、多くの場合メドゥーラとアリのパ・ド・ドゥになっている。高いジャンプと高速ピルエットが持ち味の甲斐にとって、アリは当たり役の一つといえよう。その「海賊」が、今始まろうとしている。

(次だ……)
 リカの胸はどうしようもなく高鳴った。考えてみれば、プリンシパルに昇格してからの甲斐を、一度も見ていなかった。急遽取ったチケットのため、席は2階の後ろ。甲斐だけを追うために、オペラグラスを携えてその時をまった。
 甲斐は、広い舞台の右隅から登場した。客席に背を向けてたたずんでいる。アラビアンスタイルの薄いブルーのボトムス。額の真上に羽飾りの白い羽が1枚。リカはオペラグラスを甲斐に向けた。
 先ほどまで踊っていたペアが長身の西洋人であったためか、甲斐は、ひどく小柄に見えた。ロンドンでは小気味よいとさえ感じた「俺が俺が」の挑戦的な眼光も、今日は影をひそめている。
(どうしたの?)
 リカがそう思った時だった。半裸のためくっきりと見える甲斐の背骨が、何かに驚き、はっと息を呑んだように動いた。次に彼はすっと姿勢を正し、うやうやしく左手をさしのべ、ゆっくりと深く頭(こうべ)を垂れるとひざまづいたのである。
 顔を上げた彼の視線を、リカは思わずオペラグラスで追った。その先には、薄紅色のシフォンのチュチュをまとった姫君が、メドゥーラがいるではないか!
(彼女の姿を見つけた、そのことが、彼の背中でわかった……)
 リカの心臓は止まりそうだった。そして一度止まりかけたリカの心臓が、次はやるせないほどにきしむ。まるでそのまなざしが、自分に向けられたかのように思えたからだ。

 1階のやや後方右から、ミチルは同じ情景を目にし、至福に包まれていた。
(なんて愛に満ちたあいさつなの!?)
 彼女はこの「海賊」という話を知らない。だから、パ・ド・ドゥだけを見ても、それがどんな場面で彼らのどんな関係を表すのかはわからない。本当の設定はどうであれ、このバレエを初めて見たミチルには、2人が恋人同士に見えたのだ。2人は深く愛し合い、この逢瀬を待ちこがれていたにちがいない!
 ゆっくりとロマンティックな調べにのせて、2人のバレエは続く。やがて壮大な音楽のクライマックスに合わせるように、甲斐は美智子をリフトした。両ひじをまっすぐに伸ばし、これ以上はアップできないという頂点に、両腕両脚を大きく広げた美智子を美しく保ったまま、ステージ上を歩いて回る。ステージ中央に戻ると美智子をゆっくりと下し、そのまま一礼。その後も典雅な趣で踊り続け、アダージオは終わった。

 客席に挨拶をして、美智子はいったん退場する。ステージ上は、また甲斐独りになった。アダージオの次は男性のソロ。甲斐の見せ場である。(つづく)
 

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仲野マリ
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