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バレエ小説「パトロンヌ」(73)

ミチルにとっての「甲斐のドンキ」2回目は、甲斐がバジルではなく、闘牛士エスパーダを演じる日だった。「床屋になるのを夢見るも、今はしがないプータロー」のバジルに対し、エスパーダは闘牛士。それもけっこう格上な人気の闘牛士だ。舎弟を引き連れて町を歩けば、娘たちが嬌声をあげ、目をハートにして近寄ってくる。その一人ひとりをレディとして扱いつつ、本命の女性とアツく踊る。濃いキャラクターで主演級、踊りの見せ場は多い。が、物語の筋にはあまり関係がない。

このエスパーダを甲斐が踊ったら、バジル役のダンサーがかすんでしまうのではないか? 本筋とは全く違う、エスパーダが場を支配する物語になるのではないか?
…そんなふうにさえ、ミチルは思っていた。そのくらいに意外性をさえ、ミチルは望むようになっていたのだ。

しかし、思惑は現実にはならなかった。甲斐のエスパーダは想像以上に小粒で、いつもエスパーダ役に長身の、硬質で胸板の厚いダンサーが選ばれる理由がわかったような気がした。しかしそれだけではない。練習が足りていない風が見て取れたのだ。振付を間違えたとか、そういうことではない。だが、何となく気もそぞろに思えるのだった。

考えてみれば、バジルは甲斐の持ち役で、ソロやパ・ド・ドゥも含めれば、これまでに何百回、稽古も含めれば何千回と踊ってきただろう。いわゆる「目をつぶってもできる」域に近い。一方エスパーダは違う。そもそも、バジルと違って全幕でなければ存在できない役なのだ。バレエK5周年、満を持して披露した「ドン・キホーテ」。芸術監督として、甲斐は心血を注ぎ、おそらくは一日24時間、その全てを捧げて準備してきたに違いない。プロモーションも、プロダクションも、ステージマネージメントも、そしてダンサーたちへの稽古も。最後が自分の踊りである。完璧なバジルを見せるだけでなく、エスパーダも演じる。そこに、ぬかりはなかったか。「できる」と思い込んでいなかったか?

シェイクスピア劇に多く主演し「ハムレット役者」として名声を恣にし、演出も手掛けていたローレンス・オリヴィエは、自著「演技について」の中でこう言っている。

「3番目の槍持ちにも3番目の槍持ちの人生がある」

たとえ台詞のない役であっても、名前のない役であっても、舞台の上に立つ以上、どんな登場人物にも人としての人生があり、それを理解し体に染み込ませなければ演じられず、その役者がその人間を演じられなければ、舞台全体が回らない、ということなのだ。

かつて甲斐が、「バヤデルカ」のブロンズアイドルを踊った時、「ロミオとジュリエット」でマンドリンを弾く男を踊った時、「真夏の夜の夢」でパックを踊った時、一瞬の踊りであっても衆目を集めたのはなぜだったのか。ジャンプが高いからか? 回転が速いからか? 回数が多いからか?

それは結果であって、理由じゃない。理由は別にある。甲斐が、その役を完璧なまでに自分のものにしていたから。全身全霊でその役にぶつかったからではないだろうか。

ーこんな小さな役じゃ、僕の魅力がはみ出しちゃうよ。
 もっと大きな器で、のびのび踊らせてくれよ!
 僕はもっとできる。もっとすごいもの、見たくない?

舞台は一つの世界である。しかし物語とはまた別に、役者が、ダンサーが、生きる場でもある。役と役者がリアルな肉体とライブな時間の中で、立体的に醸し出すエネルギーが、そこにあってないもの、そこにないのにあるものが立ち上る。

今、この舞台の上で、甲斐のエネルギーはどこに向いているのか。

勇ましい曲に併せてピンクのマントを大きく振り回し、黄金の闘牛士スーツをまとい、顔をあげ胸を張って踊る甲斐を見ながら、ミチルはふと、そんなことを思っていた。(つづく)



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仲野マリ
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