バレエ小説「パトロンヌ」(26)
KAI暦4年
(雨の音が聞こえる……)
ここは東京。目覚めたリカの目尻から、涙がこぼれた。
いわゆるバブルがはじけてリカの仕事にも影響が及び、会社もそれまでのように申請すればすぐにロンドンに出張できる状態ではない。ブロンズ・アイドルの衝撃以来、寺田甲斐の舞台を欠かさず観るようにしていたリカも、最近は日本での仕事が増え、見逃すことの方が多かった。それだけに、せっかく日本で甲斐を見られるチャンスだったヤングフェスティバルで「バヤデルカ」に間に合わなかったことは、リカをひどく落ち込ませていた。
時計を見ると、午後4時。雨のせいか薄暗く、朝まだきかと思い込んでいたリカは、びっくりして起き上がり、もう一度見直した。
(一体何時間眠っていたんだろう。会社に休むと言っておいてよかった……)
昨日は発熱を押して出勤したが、震えが止まらず医務室に。39度も熱があり、そのまま病院へ行くよう指導された。頑張りすぎたのだ。新しい環境に慣れなくてはいけないと、自分の体も心も追い込み過ぎた。
(頭がふらふらする。薬を飲む前に、何か食べておかなければ)
台所に行ってパンをかじる。冷蔵庫から牛乳パックを出して、開いている注ぎ口から直接飲む。
(一人暮らしだ、何が悪い!)
そのパックを再び冷蔵庫に戻しながら、リカは叫びたいような衝動に駆られた。そう広くもないマンションの一室に、響くのは雨の音だけだ。自分が口を開かなければ、ここに自分という人間が存在することすら誰にもわからない。
(このまま死んだって、誰も気づいてはくれない……)
テーブルの上には、夕べ薬を飲んだ時のまま、飲み残しの水が入ったガラスのコップが置いてある。その水でもう一度薬を飲むと、郵便受けから持ってきた郵便物を手にベッドに仰向けになった。「郵便物」といっても、ガスや水道の明細書の他は、チラシかダイレクトメールばかりだ。リカはDMを無造作に開封しては、不要なものを一つ、また一つと床に落としていった。
気だるさの中で手にとった3つ目のDMを見た時、リカははじかれるように目を見開いた。
『寺田甲斐、急遽出演決定!』
暮れに行われるオールスター・バレエ・ガラの広告である。リカは既にその日程や概要を知ってはいたが、出演者の中に甲斐がいないとわかって興味を失っていた。それがここにきて参加するというのだ。
(チケットを取らなければ!)
リカの瞳に、生きる希望が満ち溢れた。(つづく)