バレエ小説「パトロンヌ」(28)
「それにしても、『火の鳥』、すごかったなー」
休憩中、ロビーでコーヒーを飲みながら、タカシは何度もそう繰り返した。タカシにとって初めてのバレエだけに、その印象は極まりなかったようだ。だがそれは、決して彼だけが感じたものではない。
下手から、ほとんど全裸に近い男が大きなストライドで走り込んできたその瞬間から、観客のすべてが息を呑んだ。そこに本当の「火の鳥」を観たような錯覚を起こさせるほど、その体の使い方は見事であり、人間離れしていた。
「体を丸めて、バタバタ手を動かしているだけで、なんであんなに感動しちゃうんだろう。腕なんか、関節が普通の人の倍はあるように見えたね。あ、大きさじゃなくて、数!」
ミチルはうん、うん、と笑顔でうなずいた。タカシが同じものを見て、一緒に感動できたことがうれしい。これから、家でもバレエの話をする相棒ができたと思うと、それだけで幸せに思えた。
「隙がないっていうか。こっちも瞬き忘れるくらい集中しちゃった。とにかく不必要な動きが全然ない。音楽とのシンクロもすごかったね。ああいうのを、超一流っていうんだろうな」
感心しきりのタカシだが、あのデレヴィヤンコを観た後で、彼は寺田甲斐をどう評価するのか、ミチルには多少の不安もあった。デレヴィヤンコだけではない。名だたるスーパーヒーロー、ヒロインが目白押しのガラ公演で、彼がどこまで力を示すことができるか、ミチルは楽しみでもあり、心配でもある。甲斐は、来日を取り止めたダンサーの穴埋めに急遽招聘されたのだから、実力というよりは国内の人気に当て込んだ、いわば客寄せの目玉ともいえる。プリンシパルになったとはいえ、批評家の目から見れば「超一流」には及びもつかないらしい。バレエ専門誌の舞台評などを読むにつけ、バレエ初心者のミチルは、自分の目に自信が持てない。今日来ている長年のファンからすれば、甲斐はまだまだひよっこなのかもしれない。
(でも、構やしない! 誰が何て言おうと、私は寺田甲斐のバレエが好き! とにかく日本で彼を観られるチャンスが1回増えたんだから、それを喜ぼう。それに、今日ここで、実力が認められるっていうこともあるし)
開演5分前を知らせるアナウンスが流れる。ミチルはタカシとともに、客席へと急いだ。(つづく)